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和 解

終戦記念日の8月15日、NHK総合テレビで、<日本の、これから>「戦後60年 じっくり話そうアジアの中の日本」という番組をご覧になられた方も多いと思います。中国、韓国、インドネシア、ミャンマー、日本の市民、町村外相、桜井よしこさん、寺島実郎さんらが「アジア各国が日本をどう見ているのか」「反日感情が噴出する根本原因は何なのか」「なぜ相互理解が深まらないのか」等々、生の激論を交わしました。歴史教育のあり方や歴史認識の相違、日本の市民の間にさえ相当な幅があることが浮き彫りになりました。これが歴史教科書検定や各自治体の教育委員会の教科書採択に物議をかもす要因です。

それにしても戦後60年、日中国交正常化33年、日韓国交正常化40年を経ても存在するこの深い溝をこれからいかに埋めていくのでしょうか。政府レベルの対話、市民レベルの親善交流をより積極的に積み重ねつつ相互理解を深めていくのでしょう。

出演者の一人、栗山尚一氏(元駐米大使)の先ず「和解」、「忘れぬ努力と赦す努力」という言葉に感銘しました。

対話と交流の根底に「和解」の精神が息づく必要があります。しかし、和解のエネルギーはどこから来るのでしょうか。愛する者を虐殺された被害者が加害者を赦すことは容易なことではありません。

ヒトラーの右腕でユダヤ人虐殺の主犯格のアイヒマンが潜伏先の南米で逮捕され、イスラエルで裁判にかけられました。証人台に立ったアウシュビッツ収容所の生存者デイヌル氏は初めてアイヒマンを目の当たりにしたとき、裁判所の床に崩れて大声で泣きました。収容所での辛い思い出がよみがえったのだろうとだれもが思いましたが、彼は記者会見でこう答えたというのです。

「私はアイヒマンが悪魔のような顔をした男に違いないと思っていました。ところが、実際に会ってみると普通の人と変わりませんでした。そのとき、罪と悪が人間の性質であると思い知らされました。私も、この男がした通りのことをする可能性があるのです。そう思うと、自分が怖くなりました。」

私たちはみな、間違いを犯しやすい人間です。親切で温かい心を持っていると同時に、追い詰められると恐ろしいことをやりかねない性質を持ち合わせています。聖書はこのような私たち人間を、ゆるしと救いを必要とする罪人と教えています。神は御子イエス・キリストをこの世に送り、彼に私たちの罪の責任をすべて負わせて十字架上で罰せられました。こうして私たちの罪は赦され、神と和解し、人と和解する道が開かれました。

自分が神に赦された存在であるとの自覚をもつとき、和解の精神を持って相手に対することができるのではないでしょうか。

変わらない命の重さ

英国のロンドンで去る7月7日、連続爆破テロが起こり50人以上のかけがえのない命が失われました。前日の6日に2012 年夏季五輪のロンドン招致が決まったばかりで、市民の間には祝賀ムードが盛り上がっていただけに奈落の底に突き落とされるような衝撃であったに違いありません。犠牲者の遺族の悲しみはいかばかりでしょうか。どんな理由があるにせよ、目的のためには手段を選ばないテロには強い憤りを禁じえません。

先日、NHKスペシャルでアフリカのスーダンの内紛による虐殺の実態とその背景を探る番組がありました。今年1 月、20年続いてきた政府軍と南部の反政府勢力との内戦に終止符が打たれた一方で、西部のダフール地方ではアフリカ系とアラブ系住民の間で虐殺が始まりました。政府軍も一枚噛んでいることもあって、AU(アフリカ連合)が調停に乗り出しましたが、交渉は暗礁に乗り上げ、その間にアフリカ系住民の集落は焼き討ちされるという最悪の事態が起きました。調停を成功させるためには、現在のAUの平和維持軍の10倍の兵力を要し、双方の集落に駐留させる必要があるというのです。

10年程前、ルワンダで政府軍と暴徒化したフツ族によって80 万人から100万人のツチ族と穏健派フツ族が殺害された事件がありました。これほどの犠牲者が出た要因に介入したUN(国際連合)の平和維持軍の非力が指摘されました。ベルギー兵士10人が殺害されたため、新たな兵力は派遣しないとUNが決定したためでした。派兵への議論の中で、「ベルギー人10人は、8 万人のアフリカ人の命に相当する。そんな大きな犠牲を払えない」との発言があったというのです。恐るべき人種差別的発言に、愕然としました。悲しくなりました。資源もなく、国益もない所に犠牲的な投資などできないという、まさに功利主義が基盤になっています。

私たちは、他民族に対してだけでなく、身近にいる病弱な人、高齢者、障害を持つ人、不遇にある人たちに対して同じような思いを抱くことはないでしょうか。自戒したいものです。

カワセミ

毎朝散歩をしている小金井公園内には金網で囲まれた池があります。

そこはカワセミの聖域で、野鳥の会の会員の方々がカワセミの営巣の場、また餌場として整え、管理しておられます。はじめのころは木々の葉やその合間に咲いたさまざまな色と形の花々に魅せられ、また姿は見えずともいろいろな野鳥のさえずりの声を楽しみながら歩いておりましたので、さほど気にも留めずに横目でこの場所も通り過ぎていました。

ところが、10年以上もカワセミ、コゲラ、オオタカなどを観るために来ているという一人の高齢者からデジカメで写したカワセミの写真を頂いてから、ぜひこの目で見たいと思うようになりました。彼らが池にやって来る時間帯はほぼ一定しているとのことで、そのチャンスにあずかることができました。はじめて双眼鏡でその美しい色彩の可憐な姿を観たときには感動しました。

一緒にこの機会に恵まれた主婦の方が、

「はじめてカワセミを見たわ。うわさには聞いていたけど本当に綺麗な鳥ね。さっそく埼玉の親戚にも電話してあげなくちゃ」と興奮気味に言いました。

「埼玉にはいないんですか?」

「いないらしいの」

するともう一人の女性が、

「ああ、今日は本当に良い一日になるわ。暗いニュースばかりが多い毎日でいやになってしまうけど、一羽のカワセミがこんなに多くの人を幸せな気分にさせてくれるなんて、なんて素敵なんでしょう」と喜びに声を弾ませました。

こんな会話を交わしながら、しばらく一緒に歩いたあとで、エレン・ホワイト女史(教育者・宗教家)の次の言葉が実感を伴って思い出されてきました。

さえずる小鳥ややさしい花を神がお与えになったのは、
 あなたの人生の歩みを明るく楽しいものにしようとする
 父の心からあふれ出る愛のゆえではなかったでしょうか。
 花や小鳥はなくても生存に必要なものはすべて与えられていました。
 だが神は、単に生存に十分なだけを備えることで満足なさりませんでした。
 神がいかにあなたを愛しておられるかを知らせるために、
 地にも大空にも美しいものを満たされたのです。

思いわずらってはいけません p.125