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わたしが担い、背負い、救い出す

木々の葉が少しずつ色づき始め、秋を感じる季節となりました。季節がゆっくりと移り変わっていることを感じます。自然の変化を眺めていると、私たちの人生にも、さまざまな季節があることを思います。新しいことが始まり、喜びに満たされる時もあれば、思い通りにいかず、立ち止まったり、先が見えずに不安や心配を覚えたりする時もあります。

そんな私たちに、神様は力強い約束を与えてくださっています。

歩くことに疲れ、もう一歩も歩けないと立ち止まってしまった時、背負ってくれる存在がいたら、どれほど心強いことでしょうか。神様は、「わたしが担い、わたしが背負い、救い出す」と約束してくださっています。私たちが強くなって神様を支えるのではありません。神様が私たちを支えてくださるのです。

✴︎ Walk

In the

Park

—01.03

それは、私たちが造られたときから、年を重ね、老いる日まで、ずっと変わることはありません。だからこそ、私たちはどんな時にも希望を持つことができます。希望とは、「自分で何とかするから大丈夫」と自分の力に頼ることではなく、「神様が救い出してくださるから大丈夫」と神様を信頼することなのです。

幼い頃、親におんぶしてもらった経験のある方も多いのではないでしょうか。親の背中に身をゆだねると、安心して運んでもらうことができました。しかし、私たちが年を重ね、白髪になる頃には、もうおんぶしてくれる親はいないかもしれません。けれども、神様がおられます。

人生の先に何が待っているのか、私たちには分かりません。しかし、誰が私たちを支えてくださるのかは知っています。若い時も、年を重ねた時も、そして人生の最後まで、神様は私たちを担い、背負ってくださるのです。

人生のレースを走る

秋はスポーツを楽しむのに気持ちのよい季節です。スポーツをする人は、それぞれの目標に向かって練習を重ねます。短い距離を全力で走る競技もあれば、長い距離を走り続ける競技もあります。

聖書は、私たちの信仰生活をレースにたとえています。ヘブライ人への手紙には、

と記されています。そして、

と続きます。

人生は、短距離走というよりも長距離走に似ているのかもしれません。順調に進む日もあれば、思うように前に進めない日もあります。疲れて立ち止まりたくなることや、失敗して転んでしまうこともあるでしょう。周りの人と自分を比べて、「自分はダメなのではないか」と不安になることもあります。

しかし、人生のレースで大切なことは他の人より速く走ることではなく、神様が私たち一人ひとりに与えてくださった道を、最後まで走り続けることのようです。そして、そのために必要なのは、自分の力を頼りにすることではなく、私たちの目をイエス様に向けるように、聖書は教えています。

私たちは、一人だけで走っているのではありません。疲れたときには、私たちを支えてくださるイエス様を見上げましょう。苦しいときには、イエス様に助けを求めましょう。転んだときにも、主は私たちを起こし、再び歩ませてくださいます。

スポーツの秋を迎えるこの季節、体を動かすこととともに、自分自身の人生の歩みについても考えてみたいと思います。どんなにゆっくりでも、一歩ずつ前に進むことができます。そして後になって気づくのではないでしょうか。「あの時の悲しみがあったからこそ、今の喜びがある。あの時の苦しみがあったからこそ、人にやさしくすることが出来る」と。イエス様から目を離さず、希望を持って、与えられた人生のレースを忍耐強く走り抜いていきましょう。

無限の可能性

夏休みが始まりました。この時期、お子様やお孫様と一緒に過ごす時間が増えた方も多いのではないでしょうか。子どもたちの健やかな成長のために大切なことの一つは、その子のうちに神様が与えてくださった可能性を見ることではないでしょうか。

エレン・ホワイトは、イエス・キリストについて次のように記しています。

「ひとりびとりの人間の中に、キリストは無限の可能性をみとめられた。キリストは人類を、ご自分の恩恵によって……生まれ変わらせ得る者としてご覧になった。希望を持ってご覧になったキリストは、その希望を人々の心に吹き込まれた。信頼をもって人々に接したキリストは、人々の心に信頼を吹き込まれた。」

(エレン・ホワイト著『教育』)

イエス・キリストは、「もう、この人はダメだ」「絶対に変わることはない」と言って、人々を希望のないものとして、その心に絶望を与えることはありませんでした。どれほど失敗し、周囲から見放された人であっても、その人のうちに神様が備えておられる可能性を見つめ、信頼をもって接してくださいました。そのまなざしは、人々の心に「キリストの目にとまるような者でありたい」という願いを生じさせ、「自分も変わることができる」という信頼を生み出しました。

聖書は、「恵みの賜物は罪とは比較になりません」(新約聖書ローマの信徒への手紙5章15節)と語ります。神様の恵みは、どんな罪よりも大きく、人を新しく造り変える力があります。私たちも、イエス様のまなざしを持ち、「神様はあなたを愛しておられる。神様はあなたに無限の可能性を与えてくださっている」と希望の言葉をかけていきたいと思います。そのような言葉やまなざしは、一人ひとりの心に信頼と希望の種をまき、神様はその種を豊かに実らせてくださるでしょう。

いつも喜んでいなさい

パウロは、

と語っています。

「いつも喜んでいなさい」と言われると、「そんなことができるのでしょうか」と思ってしまいます。エレン・ホワイトは、次のように言っています。

「人生という道をたどりながらも、自分の間違いや欠点や失望ばかりを考えて、悲しみと落胆に満たされている人がたくさんいます。私がヨーロッパに行っていたとき、ある姉妹がちょうどこのような有様で、たいへん失望し励ましの言葉を求めてきました。その手紙を読んだ夜のことですが、私は、ある庭園を歩いている夢を見、その庭園の持ち主と思われる人に案内されていました。道すがら私が花を摘み、その高いかおりを楽しんでいると、そばを歩いていたこの姉妹は、道を遮っているつまらないあざみを見て、それを悲しみ嘆いていたのです。この姉妹は、案内者に従って道を歩かないで、茨やあざみの中を歩き、『せっかくの美しい庭園も、このような茨があっては本当に残念なことです』と言うのでした。すると案内者は、『茨のことは気にしないでください。茨はあなたを傷つけるだけですから。それより、ばらやゆりやなでしこを摘んではどうですか』と答えました。」(エレン・ホワイト著『キリストへの道』)

私たちは、自分の間違いや欠点ばかりに目を向けてしまうのかもしれません。しかし、美しいこと、感謝すべきことに目を留めることは、もっと大切なことではないでしょうか。この世界を造られた神様は、私たちがいつも喜ぶことを望み、祝福を与えてくださっています。これまで、なにか楽しかったことはなかったでしょうか。一つの失望に心を奪われ、ほかの多くの祝福に目を留めないのは残念なことです。神様の恵みを数え、いつも喜んでいたいと思います。

心の貧しい人々は、幸いである

イエス・キリストは人々に、「心の貧しい人々は、幸いである」と語られました。この言葉は、不思議でありながらも、慰めを感じさせる言葉です。

ところで、「心の貧しい人」と聞くと、どのような人を思い浮かべるでしょうか。愛することに乏しい人、気落ちしている人、自信のない人。そのような人をイメージする方もおられるかもしれません。しかし、聖書が語る「心の貧しさ」とは、自分には限界があり、一人では生きていけないことを知っている姿のことです。

私たちは成長する中で、「早く一人前になりなさい」と励まされます。もちろん、自立して生きることは大切です。しかし、いつの間にか「神様にも人にも頼らず、何でも一人でできること」が一人前だと思い込んでしまうことがあります。
しかし現実には、誰一人として生きていけません。苦しい時に支えてくれる人がいて、励ましてくれる言葉があり、見えないところで誰かの助けを受けながら、私たちは日々を生きています。

「心の貧しい人」とは、そのことを忘れない人のことかもしれません。心の貧しさを認めることは、豊かではない、不完全な自分を認めることですから、つらいことです。しかし、不完全であるからこそ、神様の恵みや人の助けを求めることができ、また、それを受けることができるのではないでしょうか。

イエス・キリストは続いて、「天の国はその人たちのものである」と約束されました。「天の国」とは、単にやがて訪れる罪のない世界だけを指す言葉ではありません。神様の愛と平安に包まれて生きる世界、と言ってもよいと思います。自分の弱さを隠して生きるのではなく、ありのままの自分を受け入れながら、神様の恵みに感謝し、互いに助け合って生きる平和な世界です。

本当の意味での「一人前」とは、何でも一人で抱え込むことではなく、自分の限界を知りながら、神様の祝福を受けつつ、人と支え合って生きることなのかもしれません。

咲けないような場所であっても

『置かれた場所で咲きなさい』という本があります。その中で著作の渡辺和子さんは、「花として咲く」とは、「神様に導かれた所で、一生懸命心を尽くして生きる」ことだと語っています。そして「咲く」とは、「自分が幸せになり周囲の人を幸せにすること」だと言います。

私たちも、そのように生きられたら、どんなにすばらしいことでしょうか。

しかし現実には、花を咲かせたいと思っても、咲かせることができないような状況に置かれることがあります「自分のことで精一杯になり、周囲の人のことを考える余裕を失ってしまうこともあるでしょう。子育てや仕事、思うようにいかない人間関係の中で、「こんなはずではなかった」と感じることもあるかもしれません。

渡辺さんは、そんな時についても語っています。「どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下ヘ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために」と。植物が美しい花を咲かせるためには、見えないところでしっかりと根を張る時間が必要です。

きれいな花は、年中咲いているわけではありません。むしろ花の咲いている時期は短く、根を張って十分な養分をとり、葉をつけて光合成をし、活力を得る時期の方が長いのです。

私たちの人生も同じなのかもしれません。うまくいかない時期は、決して無駄ではなく、次に咲く花のための大切な備えの時です。そのような時にこそ、心が整えられ、何が大切なものなのかを知り、愛が深められる機会となるのです。

もし今、つらさの中におられる方がいらっしゃるなら、その時もまた意味のある時間であることを、そっと覚えていただけたら幸いです。皆さまの毎日が、やがてあたたかな花を咲かせる歩みとなりますよう、心よりお祈りしております。

はじめまして

はじめまして。このたび当地域の教会(セブンスデー・アドベンチスト小金井教会)に着任しました牧師の平賀和弘と申します。どうぞよろしくお願いいたします。これからどのような出会いが与えられ、すばらしい出来事が起こるのか、楽しみにしています。

さて、聖書には、神さまご自身が自己紹介された時の様子が記されています。神さまはモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト記3章14節)と語られました。この言葉は、不思議でありながら、深い慰めと希望に満ちています。

神さまがこのように自己紹介されたのは、モーセが使命に戸惑い、自分の弱さに目を向けていた時のことでした。内外の敵や大きな課題を前にして、おじけづいたモーセは、「わたしは何者でしょう」と神さまに訴えます。その言葉には、「自分にはできません」という思いが込められているようです。モーセは、神さまからゆだねられた働きを拒もうとするのです。


「わたしはある」とは、神さまが過去も現在も未来も、またどんな状況であっても変わることなく存在し、導いてくださっていることを示しています。今この瞬間にも、神さまは私たちと共におられます。モーセにとって必要なのは、「自分が何者なのか」ではなく、「神さまが共にいてくださる」という事実でした。

神さまは、遠くから見ているだけのお方ではありません。悩みや不安のただ中にいて、共に歩み、必要な力と導きを与えてくださいます。だからこそ私たちは、自分の力や状況ではなく、「わたしはある」と語ってくださる神さまに信頼して歩むことができます。

どのような日にも共にいて導いてくださるという神さまの約束に支えられながら、一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

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地域の皆さまの上に平安がありますようにお祈りしています。どうぞお気軽に教会ヘお立ち寄りください。

忘れないように

皆さんは「訓練」という言葉は好きでしょうか?
なんとなく、辛く、苦しいイメージがありますが、その先には成長した自分を想像できるかもしれません。
旧約聖書、申命記8章5節には、次のように書かれています。

聖書の神様は、時に私たちを「訓練」するというのです。その目的は、神様に頼ることを忘れないようにするためであり、私たちの幸せのためなのです。

聖書の神様が私たちに知らせたいこととは、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ということです。つまり、私たちに与えられている「主の言葉」である聖書の言葉に頼ることを知らせたいのです。

この通信を読んでくださっている皆さんも、今まで様々な訓練、試練を経験されたと思います。
まさに、今、その試練の中を生きている方もいると思います。
辛すぎて、苦しすぎて、この試練、訓練の先にある成長や幸せなど考えられないこともあると思います。
試練の中、苦難の中において覚えておきたいイエス・キリストの言葉を紹介いたします。
新約聖書ヨハネによる福音書16章33節です。

苦難はあるけど、それらすべての苦難に勝利された方、イエス・キリストの言葉に信頼し、皆さんお一人お一人に神様からの平安と勇気が与えられますようにお祈りいたします。

私ごとですが、この3月を持ちまして、小金井教会の牧師を離れることとなりました。
通信を通してですが、皆さんとお会いできたことを感謝いたします。ありがとうございました。
4月より新しい牧師が着任しますので、今後とも小金井教会をよろしくお願いいたします。