「池増 牧師」カテゴリーアーカイブ

蝋梅

まだ周囲の木々が冬の装いの中、なんとも言えない甘い香りが漂ってきます。なんの香りだろう?  私は周りを見渡しました。読書をしていたベンチから程遠くないところに、放物線を描く幹から伸びた枝々に黄色いつぼみや花をつけた木々があります。早速近づいてみると甘い香りと共に可憐な花が目に入ってきました。蝋梅です。昨年春、小金井公園を散歩中に初老の男性から写真を頂き、ここにあることは聞いてはいましたが、初めてこの目と鼻で味わってとても幸せな気持ちになりました。花のない季節だけに心を和ませ、春の到来に胸を膨らませてくれます。

蝋細工のように艶のある可憐な花びらもさることながら、できればこの甘い香りのなかにいつまでも身を置いておきたいと思うほどです。

「蝋梅」という名の由来は、旧暦の12月(蝋月)から咲くからだとか、花が蝋細工に似ているからだとか言われますが、梅とは関係のないロウバイ科の植物らしいとのこと。

花にはそれぞれ形と色と香りがあります。絵画や造花も形と色はまねることができますが、香りだけはできません。自然の花の香りは化学では作り出せません。昆虫は花の色や形にも誘われますが、かぐわしい香りは数キロメートル先からでも嗅ぎ分けて来るそうです。そんなことを考えているうちに聖書の言葉が心に浮かんできました。

私たちは意識していないかもしれませんが、それぞれ個性的な香りをまわりに放っているのです。はたして私はどんな香りを周囲に放っているのだろう?安らぎと希望を与える愛の香りか、それとも・・・?と考えさせられました。形や色だけでなく、いのちの香りを放たせていただきたいものです。

涙

寒い日々が続いていますが、皆さまお元気でいらっしゃいますか? 東北や甲信越では昨年末以来、例年にない降雪で100人以上の方々が犠牲になっています。住まいを、愛する者を失って途方にくれている方々のうえにお慰めとお支えをお祈りいたします。

私たちの人生にも厳しい冬のような試練のときがあります。私事になりますが、ここ数週間の間にとてもつらい経験をいくつも味わっています。前任地の教会で心を一つにして働いてくださった親しい信者さんの突然の訃報でした。しばらく音信がなく、家内からぜひ一度電話してあげてねと言われていながら、そのうちにと思っていた矢先のことでしたので、自らの怠慢を大変悔いています。さらに知人の自殺未遂、そして私の友人から、「先生、今日病院に検査結果を聞きに行ったら、癌だと言われましてね。どうも転移している可能性が高いと言うのです。明日から精密検査です。家内は涙を流しています。神様が53歳で人生終わりだと言われたらそれを呑むしかないですが、先生の祈りの端に覚えていただいたら感謝です」との電話を頂きました。「端ではなく、真ん中に入れてお祈りします」と平静に応えたものの、彼や奥様の心中を察すると涙があふれてきました。その他にも心痛む出来事が重なって私の心もすっかり曇天模様になってしまいました。

これが人生なのかもしれませんが、どうして人はこんなにも悩みや苦しみを背負いながら生きていかねばならないのだろうと叫びたくなることもあるでしょう。切なくて涙が止まらないこともあるでしょう。

水分と少しの塩分が含まれている涙にはストレス物質が溶け込んでいるのではないかと考えられています。涙は副交感神経の働きで流れます。副交感神経はリラックスの神経で、涙を流すことによってストレスも一緒に流しているのかもしれません。おしゃべりと笑いはストレスを解消し、免疫力を高めることは周知のところですが、涙にもその効用があるようです。「泣くまいとこらえるからうつ病になるのだ」と医師で作家のなだいなださんは言っています。

さらに聖書には、神様が私たちの苦悩の涙を覚えておられるという慰めの約束があります。

新しい心

あけましておめでとうございます。

今日は日本中で、いや世界中で「新年おめでとうございます」

“A Happy New Year!”という言葉が交わされています。古い年が過ぎ去り、新しい年を迎えて、新たな一歩を踏み出そうとしておられる皆様方にとって幸せ多き一年となるようにお祈りいたします。

さて、新しい歩みとはいったい何なのでしょうか。イスラエルの賢者・ソロモン王は自分の体験からこのような言葉を残しています。

一見虚無的ともとれる言葉ですが、本質をついてはいないでしょうか。カレンダーの上では、2005年は終わり、2006年がスタートしました。しかし、時代は繰り返すといわれるように昨年起こったような自然災害、テロや内戦、残忍な犯罪など、願わない出来事が起こるでしょう。もちろん喜びと希望をもたらすすばらしい出来事もあるでしょう。でもこれらすべては全く新しいことではないというのです。

周囲の社会から自分自身の生活に目を向けてみましょう。年頭に当って新たな目標に意気込んでみても、誘惑に負け、あせり、迷ってしまう。愛のない言葉、不平不満の言葉がついつい出てしまう。それは旧態依然とした私たちの心の内側そのものにあるのではないでしょうか。ソロモンが言わんとしたのはこの点ではないでしょうか。新しい計画や意気込みよりさきに、新しい自分、新しい心が必要です。

イエス様のもとにニコデモというユダヤの立派な指導者が相談に来たことがありました。キリストは彼に「だれでも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われました。どんなに教養や学問を身につけ、高徳の人であっても、神様の力によって新しくされなければならない。新しい心を頂く必要があると言われたのです。神様の愛によって昨日までの自分を赦していただき、新しい人、新しい心で日々生きるとき、新しい歩みが始まるのではないでしょうか。

オーストラリア研修に参加して

10月下旬から2週間、オーストラリア教会研修に7名の牧師たちと参加しました。その国土面積は769万平方キロメートルの、地球上最大の島であり、最小の大陸です。ロシア、カナダ、中国、米国、ブラジルに次ぎ、世界で6番目の広さですが、人口はわずか約2000万人。日本の国土の27倍、人口は6分の1です。大都市はともかく、郊外の住宅地には樹木も多く広々とした庭付きの平屋の住宅が建ち並んでいます。私たちが滞在した宿舎も環境に恵まれていて、いろいろな種類の大型インコたちの大きな鳴き声で目を覚まし、毎朝散歩を楽しみました。とにかく広々としていて気持ちまでおおらかになります。

さて、今回の訪問先はブリスベン(クイーンズランド州の州都)とシドニー(ニュー・サウス・ウエールズ州の州都)周辺の13の教会でした。

オーストラリアは西欧からの移民が多い国ですが、全人口に占めるクリスチャンの割合は20%で必ずしもキリスト教国家というわけではありません(日本は1%弱)。近年は他の先進諸国同様、世俗化が進み、国民の特に若者たちの宗教離れが増えているそうです。そうした中で私たちが訪問したどの教会もとても温かく歓迎してくださり、そこでなされているプログラムには興味津々でした。

礼拝日、ある教会で聖書の学びのクラスに出席したときのことでした。すでにクラスが始まっていたので遠慮がちに後ろの方に腰掛けようとしたとき、初老の黒人男性が「兄弟、どうぞこちらへ、私の横にお掛けなさい。私たちは同じ家族の一員です」と包み込むような笑顔で声をかけてくださいました。後で昼食をともにしたのですが、彼は19歳のとき南アフリカから移民してきて今は小児科医として開業しておられるとのこと。はじめてこの教会に来たとき同じように迎えられたそうです。450人ほどが出席する大きな教会でありながら、はじめての来訪者に個人的な関心を示してくださることに心熱くしました。またそれぞれの教会が地域に住む方々の幸せのために様々なボランティア活動をしておられる姿に本当に頭が下がりました。

我が小金井教会もいっそう皆様方を温かく迎えられるよう努めてまいりますので、どうぞお気軽にお立ち寄りください。

改 革

近年にない盛り上がりを見せた先の総選挙は私たちの予想をはるかに超える自民党の圧勝で終わりました。参議院で郵政民営化を否決された小泉首相は、政権転落の危険を顧みずに解散に踏み切ったばかりでなく、反対派には容赦なく刺客候補者まで立てるという郵政改革実現へのすさまじい執念を見せました。その捨て身振りが、「郵政」だけが改革ではないと叫ぶ他党を一蹴する結果をもたらしました。

これだけの信任を得た小泉自民党は国民の期待を裏切らないよう責任を持って、郵政改革を入り口にして様々な改革に取り組んでいただきたいものです。

年金改革、政治改革、財政構造改革、経営改革などと叫ばれますが、改革は国や企業など組織だけのものではありません。改革は私たち自身の生き方にも求められてはいないでしょうか。自分の経済生活には無駄はないか?本当に必要なものにお金や時間は使われているだろうか? 自分と家族の必要や楽しみのためだけでなく、他の人の必要に対してはどうだろう? 私の人生における優先順位はこのままでよいのだろうか? 私は自分に与えられた使命を果たすために健康に留意しているだろうか? ある人は不節制な食生活を見直し、適度な運動をするなど、ライフスタイルの改革に迫られているかもしれません。

だいぶ前になりますが、「シルクロード」や「仏教伝来」などの作品で世界に知られる日本画家の平山郁夫さん(75歳)があるテレビ番組の中で次のように言っておられたことを聞いて本当に感動いたしました。

「良い絵を描くためには節制が必要です。お腹一杯食べていては、絵は描けません。体重を増やしてはだめなんです。お酒も止めました。画家の生命は作品を残すことです。お酒を飲んで酔っ払って時間を無駄にすることはもったいないことです。絵を描くことはボクシングをしているのと同じなんです。」

本当にすごいと思いませんか。私たちも自分の目標を定めて、改革にチャレンジしてみませんか。

和 解

終戦記念日の8月15日、NHK総合テレビで、<日本の、これから>「戦後60年 じっくり話そうアジアの中の日本」という番組をご覧になられた方も多いと思います。中国、韓国、インドネシア、ミャンマー、日本の市民、町村外相、桜井よしこさん、寺島実郎さんらが「アジア各国が日本をどう見ているのか」「反日感情が噴出する根本原因は何なのか」「なぜ相互理解が深まらないのか」等々、生の激論を交わしました。歴史教育のあり方や歴史認識の相違、日本の市民の間にさえ相当な幅があることが浮き彫りになりました。これが歴史教科書検定や各自治体の教育委員会の教科書採択に物議をかもす要因です。

それにしても戦後60年、日中国交正常化33年、日韓国交正常化40年を経ても存在するこの深い溝をこれからいかに埋めていくのでしょうか。政府レベルの対話、市民レベルの親善交流をより積極的に積み重ねつつ相互理解を深めていくのでしょう。

出演者の一人、栗山尚一氏(元駐米大使)の先ず「和解」、「忘れぬ努力と赦す努力」という言葉に感銘しました。

対話と交流の根底に「和解」の精神が息づく必要があります。しかし、和解のエネルギーはどこから来るのでしょうか。愛する者を虐殺された被害者が加害者を赦すことは容易なことではありません。

ヒトラーの右腕でユダヤ人虐殺の主犯格のアイヒマンが潜伏先の南米で逮捕され、イスラエルで裁判にかけられました。証人台に立ったアウシュビッツ収容所の生存者デイヌル氏は初めてアイヒマンを目の当たりにしたとき、裁判所の床に崩れて大声で泣きました。収容所での辛い思い出がよみがえったのだろうとだれもが思いましたが、彼は記者会見でこう答えたというのです。

「私はアイヒマンが悪魔のような顔をした男に違いないと思っていました。ところが、実際に会ってみると普通の人と変わりませんでした。そのとき、罪と悪が人間の性質であると思い知らされました。私も、この男がした通りのことをする可能性があるのです。そう思うと、自分が怖くなりました。」

私たちはみな、間違いを犯しやすい人間です。親切で温かい心を持っていると同時に、追い詰められると恐ろしいことをやりかねない性質を持ち合わせています。聖書はこのような私たち人間を、ゆるしと救いを必要とする罪人と教えています。神は御子イエス・キリストをこの世に送り、彼に私たちの罪の責任をすべて負わせて十字架上で罰せられました。こうして私たちの罪は赦され、神と和解し、人と和解する道が開かれました。

自分が神に赦された存在であるとの自覚をもつとき、和解の精神を持って相手に対することができるのではないでしょうか。

変わらない命の重さ

英国のロンドンで去る7月7日、連続爆破テロが起こり50人以上のかけがえのない命が失われました。前日の6日に2012 年夏季五輪のロンドン招致が決まったばかりで、市民の間には祝賀ムードが盛り上がっていただけに奈落の底に突き落とされるような衝撃であったに違いありません。犠牲者の遺族の悲しみはいかばかりでしょうか。どんな理由があるにせよ、目的のためには手段を選ばないテロには強い憤りを禁じえません。

先日、NHKスペシャルでアフリカのスーダンの内紛による虐殺の実態とその背景を探る番組がありました。今年1 月、20年続いてきた政府軍と南部の反政府勢力との内戦に終止符が打たれた一方で、西部のダフール地方ではアフリカ系とアラブ系住民の間で虐殺が始まりました。政府軍も一枚噛んでいることもあって、AU(アフリカ連合)が調停に乗り出しましたが、交渉は暗礁に乗り上げ、その間にアフリカ系住民の集落は焼き討ちされるという最悪の事態が起きました。調停を成功させるためには、現在のAUの平和維持軍の10倍の兵力を要し、双方の集落に駐留させる必要があるというのです。

10年程前、ルワンダで政府軍と暴徒化したフツ族によって80 万人から100万人のツチ族と穏健派フツ族が殺害された事件がありました。これほどの犠牲者が出た要因に介入したUN(国際連合)の平和維持軍の非力が指摘されました。ベルギー兵士10人が殺害されたため、新たな兵力は派遣しないとUNが決定したためでした。派兵への議論の中で、「ベルギー人10人は、8 万人のアフリカ人の命に相当する。そんな大きな犠牲を払えない」との発言があったというのです。恐るべき人種差別的発言に、愕然としました。悲しくなりました。資源もなく、国益もない所に犠牲的な投資などできないという、まさに功利主義が基盤になっています。

私たちは、他民族に対してだけでなく、身近にいる病弱な人、高齢者、障害を持つ人、不遇にある人たちに対して同じような思いを抱くことはないでしょうか。自戒したいものです。

カワセミ

毎朝散歩をしている小金井公園内には金網で囲まれた池があります。

そこはカワセミの聖域で、野鳥の会の会員の方々がカワセミの営巣の場、また餌場として整え、管理しておられます。はじめのころは木々の葉やその合間に咲いたさまざまな色と形の花々に魅せられ、また姿は見えずともいろいろな野鳥のさえずりの声を楽しみながら歩いておりましたので、さほど気にも留めずに横目でこの場所も通り過ぎていました。

ところが、10年以上もカワセミ、コゲラ、オオタカなどを観るために来ているという一人の高齢者からデジカメで写したカワセミの写真を頂いてから、ぜひこの目で見たいと思うようになりました。彼らが池にやって来る時間帯はほぼ一定しているとのことで、そのチャンスにあずかることができました。はじめて双眼鏡でその美しい色彩の可憐な姿を観たときには感動しました。

一緒にこの機会に恵まれた主婦の方が、

「はじめてカワセミを見たわ。うわさには聞いていたけど本当に綺麗な鳥ね。さっそく埼玉の親戚にも電話してあげなくちゃ」と興奮気味に言いました。

「埼玉にはいないんですか?」

「いないらしいの」

するともう一人の女性が、

「ああ、今日は本当に良い一日になるわ。暗いニュースばかりが多い毎日でいやになってしまうけど、一羽のカワセミがこんなに多くの人を幸せな気分にさせてくれるなんて、なんて素敵なんでしょう」と喜びに声を弾ませました。

こんな会話を交わしながら、しばらく一緒に歩いたあとで、エレン・ホワイト女史(教育者・宗教家)の次の言葉が実感を伴って思い出されてきました。

さえずる小鳥ややさしい花を神がお与えになったのは、
 あなたの人生の歩みを明るく楽しいものにしようとする
 父の心からあふれ出る愛のゆえではなかったでしょうか。
 花や小鳥はなくても生存に必要なものはすべて与えられていました。
 だが神は、単に生存に十分なだけを備えることで満足なさりませんでした。
 神がいかにあなたを愛しておられるかを知らせるために、
 地にも大空にも美しいものを満たされたのです。

思いわずらってはいけません p.125