「山口 豊 牧師」カテゴリーアーカイブ

信仰とは

温かい日と寒い日が交互にやってきて、それでもやっぱり春の到来が待ち遠しい頃となりました。

昨年4月にこの教会に赴任したばかりで、多くの方には十分にご挨拶さえ済んでいないのですが、2月の人事異動により、富山教会(金沢、福井を含む)に転任することになりました。やっとこの地にも慣れてきたかなという頃でしたので、残念な気持ちもあります。

よく聞かれる質問に、どこに行きたいですか?というものがあります。私たちの教会は、日本全国に教会があり、私たち牧師はそこに派遣されるかたちで 各教会に参ります。ある方は、北海道に行ってスキーをしたいとか、沖縄に行ってきれいな海を楽しみたいとか、いろいろな希望があるかもしれません。私はあ まりそのように考えていません。今回のように東京にいたいと思っても、違う所に行くこともあるので、どこに行きたいと思うようにしていません。一つだけ心 残りは、両親と頻繁に会えなくなることだけです。

聖書の中には、神様の言葉にしたがって行先を知らずに出て行った人のことが書いてあります。それはアブラハムです。当時はアブラムという名前でした が、イスラエル民族の父と呼ばれる彼はもともと、カルデヤのウルというところに住んでいました。それはいまのイラクでメソポタミア文明の町でした。そこに いたアブラハムに神は次のように言われます。

そして、新約聖書では次のように書かれています。

もちろん知らない人から、行く先を知らない所に行けと言われたらできませんが、愛している神様からそう言われたらと思っても、実際はそう簡単ではありません。

アプラハムがそれをできたのは、神様の言葉になんでも従おうという信仰があったからです。

信仰とはまだ見ていないことを信じることです。教会にきてその信仰についてのお話を聞いてください。アプラハムの信仰を知ってください。

雪よりも白く

暖冬と言われていた割に、年が開けてから寒い日が続き冬を実感しています。この間はしっかりとした雪が降り、電車を使う方は大変だったのではないでしょうか。

そして、奄美大島や、沖縄でも雪が降ったと話題になっていました。私たちの教会には、全寮制の高校が広島にあります。私もそこに在学中、沖縄からきた生徒たちが雪を見て喜ぶ姿を覚えています。なので沖縄で雪を見るだけでも驚きだったのではないでしょうか。

関東に住む私たちにとっても、積もるほどの雪は子供の頃には及ばないものの、すこし心躍るものではあります。通勤などに差し支えがなければシーズンに何度かは雪景色を見てみたいものです。とはいえ、雪国の人にとっては、きれいだけではなく雪かきの大変さ、時には命の危険さえ覚えるような事態を引き起こすものとして身近ながらも楽しむだけとはいかないものでしょう。

聖書の中にも雪がでてきます。聖書の舞台になっているイスラエル近辺では雪は降らないのかと思いがちですが、緯度的には日本とはあまり変わらないので、縁遠いものではなかったようです。今はシリアとの国境になっているヘルモン山の上には白い雪がいつもあり、それを見ていました。そして、雪は白いものを表すものとしても用いられています。

雪より白く

日本にも、白銀の世界という言葉があるくらい雪に覆われたものをみると真っ白に見えます。古代のユダヤ人も同じ視点を持っていました。

この言葉は、重い罪を犯したダビデ王が自分の罪を告白し悔い改めたことを歌った詩編51編の言葉です。ヒソプの枝は、当時の宗教的な清めに使われていました。その事を、自分が犯した罪を神様が洗い清めてくださることに重ねています。罪はどす黒く、暗いイメージを与えますが、神様によって許されたものは、雪よりも白くなると聖書のみことばは語っています。

まだ今シーズン雪が降るかもしれません。白い雪を見た時にこの聖書のみことばを思い出してみてください。

支払われたもの 

新しい年を迎えると何か自分も新しくなったような気がします。一年の計は元旦にあり、と言ったのはそういう気持ちであるのかもしれません。日が沈み、日が昇りいつもと変わりないのに、年が違うというだけで、なにか違った決心をしています。

江戸時代いろいろな支払いをためていて大晦日を過ぎてしまえばなかったものにしてもらえる、という話が落語に出てきます。そのため大晦日に支払いを催促に来た人をどうにかしてごまかす、というところから面白い話がはじまって来ます。

年が改まるということは、いままでにやってきたことが新しくなるということがあるのかもしれません。

ユダヤ人にもそのような考えがありました。貧富の差がつかないようにするために、借金がチャラになる日というものがありました。その根本的な考えは、神様が全部許してくださるよ、ということにありました。

しかし、借金している人にとってはとっても良い話であり、福音ですが、お金を貸している方からしたら、たまらない話かもしれません。

聖書では、借金をしている人、負債を抱えている人が許される話が出てきます。今のお金で何十億円という借金をしている人が、その負債を許してもらえます。その許された人がホッとしていると、自分がお金を貸している人が目の前を歩いてきました。何十億円も許されたのに、その人は自分が貸している百万円を許すことができずに、貸している人を訴えて投獄します。

教会で語られることは何かというと、私たちはすでに何十億円もの負債を抱えていたのですが、それがすでに払われているという不思議なお話です。私たちが払わなければならないものも大きいです。それは命だからです。神様から離れている私たちは、すべての人が命を捨てなければならない状況にあります。ですが、その状況を変えるために、私たちのために、すでに価値のある物が支払われているのです。その価値あるものがイエス・キリストです。神の子であるイエス・キリストの命が私たちのために、すでに支払われているのです。

新しい年になったとき、その私たちのためにすでに支払われている何十億円、いやそれ以上の価値あるものについて考えるときとしてください。

うれしいクリスマス

急に寒くなってきました。ついこの間まで半袖で歩いていたと思ったのに、今は長袖だけではなく、厚い上着を着なくてはならなくなりました。そして、12月に入り町はクリスマス一色になってまいります。

私たちの教会も、多くの方にクリスマス礼拝や、クリスマスコンサートのご案内をしております。いつもは教会の敷居が高いと思っていらっしゃる方々も、クリスマスというと教会に足をお運びいただける機会となっていると思います。

ニュースなどでお聞きおよびだとは思いますが、アメリカではクリスマスを大きな声で言えないのをご存知でしょうか。多民族国家であり、さまざまな宗教を信じる人達に配慮して、小売店などではクリスマスと言えない様になっています。英語のクリスマス(Christmas)は、綴りを見ると分かるようにその中にキリスト(Christ)が含まれており、キリスト教のものであるために、イスラム教や、ユダヤ教をはじめさまざまな宗教の方からすればお祝いする雰囲気ではないでしょう。そのために、クリスマスシーズンとは言わずに、ホリデーシーズンと呼んでいます。

日本を見ておりますと、特にキリスト教の方が多いわけではないのにもかかわらず、どこを見てもクリスマス一色になっています。先にも申したとおり、この季節になりますと、町で讃美歌が聞こえ、普段教会にお見えにならない方も足を運んでくださるので嬉しいものです。

クリスマスのメッセージは、教会に来られた時にくわしくお話しますが、その中心は、イエス・キリストがこの地上にお生まれになったことです。クリスマスに歌われる讃美歌はそのことを喜んでいます。有名なヘンデルのメサイアはそのことを歌っています。その中でも、ハレルヤコーラスはお聞きになったことがあると思います。ハレルヤとは「主をほめたたえよ」という意味で神様をたたえる歌です。イエス・キリストが地球に来てくださったことは、私たちにとって嬉しいことなので、それをしてくださった神様をたたえる歌です。

クリスマスシーズンに皆様と一緒にそのことをお祝いすることができることは私たちにとっても嬉しいことです。クリスマスの飾りを見たり、クリスマスの讃美歌を耳にする時、嬉しい気持ちになってくださると私たちも嬉しいです。

聖書のラブソング(2)

近年秋が短くなってきた気がします。暑いのが10月まで続いていたと思ったら、11月には急に寒くなって来ます。日本には四季があり、それぞれに好きな季節があったり、春夏秋冬それぞれの好きな所、嫌いな所があったりするのかもしれません。

ですが、天高く馬肥ゆる秋という言葉があるように、秋の空は本当に高い気がします。暑すぎず、寒すぎず、湿度がなくちょうどいい陽気に雲がない空を楽しむことができるのは秋ならではないでしょうか。

また、うろこ雲というのも秋を思わせてくれるものです。秋の空とは関係ないですが、雨の降ったあと空にかかる虹はわたしたちの目を奪います。浮かんでいるように見える虹を見て人々はいろいろな感想を持ちます。

この虹は、水滴に光が入ってプリズムの効果で7色に見えるんだということは、科学的にはわかってはいても、実際に見てみると心奪われます。

聖書には、世界で一番初めの虹のことが書かれています。創世記のノアの箱舟のお話です。天地が創られたあと、地上には雨が降ったことがありませんでした。そのため、神様が洪水で世界を滅ぼそうと言われたとき、信じる人はありませんでした。しかし、神様の言われたとおり、雨が降り大洪水が地を覆い箱舟に入ったノアの家族と動物たちが救われました。雨があがった後、神様はノアにこう言われました。

そして、この虹が出るときに、神様がもう一度洪水でこの世界を滅ぼすことはないと言われました。これ以降いまでも局地的な洪水はあっても全世界的な洪水はありません。ノアの洪水の一度だけでした。

ですから、神様を知る人にとっては虹が出ると神様とわたしたちの約束を思い出します。そのことを思い出してほしいと空には虹がかかるのです。文明が発達した現代の空にも、昔から神様がわたしたちと交わしてくださった証しとして、虹がかかります。これから虹がかかった時、神様が私たちにしてくださった約束を思いだしてみましょう。

聖書のラブソング

最近は、世代を超えて聞かれる歌などはすくなくなりました。私が小学校の頃の昭和60年代は、子どもから大人までが知っている曲がありました。しかし、そのすぺてが子どもにとって良い内容であったとは限りません。大人の恋愛を歌ったものなどは、意味がわからず歌っていましたが、いま思い返してみると親の前でこんな歌は歌えないなというようなものもありました。今でも世に出ている歌はラブソングが中心です。そんな中、聖畫にもラプソングがあるというと驚かれるのではないでしょうか。それは旧約聖書の雅歌(がか)という書物です。

雅歌には恋人を歌った歯の浮くようなセリフがたくさんあります。

これを声に出して読むのはかなり勇気がいるのではないでしょうか。この様に愛する人に向けての歌で構成されているのが雅歌です。英語の言い方では、「歌の中の歌」と呼ばれています。恋しい人のことを思うと誰でも詩人になり、歌を歌い出すのはどこの国でも同じようです。

そして、この雅歌には、神という単語が出てきません。そのため聖書としてこの書物を採用してもいいのかという議論も過去にはなされてきました。あまりにも男女の愛について書かれているために、ユダヤ教では、30才になるまでは読むことを禁じられていたこともあったそうです。

では、この雅歌がなぜ聖書に残り、今の時代にあって私たちに何を教えようとしているのでしょうか。私たちは、この恥ずかしくなるような甘い言葉で表現された愛の関係が、神様と教会の関係を表していると考えています。それは、雅歌で表現されている愛は、男女の間だけでなくて神様とわたしたちとの間にもあると感じることができるからです。

明治時代、LOVEの訳語として、愛を使うようになりましたが、今愛を考えるときに、様々な愛を感じることがあります。人間愛、家族愛、友愛、そして異性を愛する愛。雅歌には男女間の愛が書いてありますが、それを読むときにそれよりも大きな愛に心が向きます。聖畫が教える愛を考える一助として雅歌をお読みください。

元気の出る言葉

元気の出る言葉を書きます、といって道端ではがきサイズの紙に詩のような言葉を書いてお金をもらっている人を見たことはないでしょうか。全国的にどこにでもいらっしゃるということは、それだけお金を払ってでも元気の出る言葉を欲しがっている方がたくさんいることを表しているのかもしれません。

わたしたちが聖書の中から、元気の出る言葉がほしいと聞いてくる方もいらっしゃいます。聖畫中には、「箴言」(しんげん) という個所があり、 そこには人生に役立つ格言がたくさん書いてあります。私は箴言という言葉の意味を知らずに使っていましたか、中国語でも同じ様に表して、その意味は、教訓だとか格言だそうです。

たとえば、次のような言葉があります。

わたしたちは、自分の口から出る言菓で後悔することがたくさんあります。

両親に優しくしなさいということで、どこの国でも通じるよい言葉です。

この箴言は、どこの文化でも共通するような道徳的なよいことが書いてあり、非常に役に立ちます。元気の出る言葉としても役に立つかもしれません。

しかし、わたしたちは聖畫がただの自己啓発や、元気のでる言葉集として読んでいるわけではありません。聖書は神様の霊感を受けて多くの著者が書いたもので、その中心は神の言葉です。箴言はただの格言集ではなく、本物の知恵について書いてあります。

先ほど挙げた格言も、本当に知悪から出たものであるのでただの格言よりも深く考えることができます。全ての知恵と知識の源である、神様の言葉が聖畫の言葉です。

本物の知恵は、わたしたちを救い、永遠の命を与えたいと思っている神様の思いです。聖畫はただの元気がでる言葉ではなく、命があふれる言葉です。ぜひ、教会でこの命があふれる言葉についてお聞きください。聖畫の中にはそれがたくらんあります。

どんな人でも

7月の中旬から暑い日が続いていましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

私の住む家は、夏は暑いよ、とお伺いしていたのですが、本当に暑いです。日当たりが良いのは大歓迎なのですが、壁が熱されて部屋が暑くなるようです。夜涼しくなってから、家に帰ってきて、玄関を開けた途端モワッとした熱気が部屋から出てきます。あまりの署さにすこし驚いておりますが、なんとか夏を乗り切りたいと思います。

暑い暑いとばかり言っておられませんが、聖書の中には、暑いことを神様に文句を言った人の話が出てきます。預言者の∃ナです。

預言者というのは、神様の言葉を人々に伝える役目を果たす人でした。ニネベは、神様の前に悪い事を行っていたので、神様が滅ぼそうとされました。ヨナはそのことを伝えに行きなさいと言われました。しかし、ニネベはヨナにとって外国で、預言者の話を聞いてくれるわけがないと思い行きたくありませんでした。ヨナは、ニネベと反対の方へ逃げます。船にのって逃げていると大嵐になりました。当時のしきたりで海に生贄をささげて逃げるために、くじびきで生贄を決めました。ヨナは自分に当たることをわかっていました。自分が神様から逃げていたからです。ヨナは海に投げ込まれました。すると大きな魚に飲み込まれ命を救われます。ヨナは自分が逃げていたことを後悔し、ニネベに神様の言葉を伝えに行きました。ヨナが罪から離れなければこのニネベは滅ぼされますと伝えると、悪かったニネベの人たちは悔い改め、罪から離れました。神様はニネベを滅ぼすことをやめました。

ヨナは、それが気に入りませんでした。自分は神様からの言葉を伝えたのに、そのことが実現しなかったからです。ニネベを見下ろす所に小屋を建ててそこで過ごしていたヨナは、木陰で涼んでいました。すると、神様は夜のうちにこの木を枯れさせてしまいました。次の日、木陰がなくなったので、暑くてたまりません。ヨナは神様にこんなに暑いなら殺してくださいと文句を言ったのです。神様はそんなヨナに、木陰がなくなって文句を言っている。あなたは木が一本なくなって惜しんでいるのに、私はニネベに住む12万人の人を惜しんでいるんですよ。と言いました。神様はそのように、どんな人も救いたいを思っています。滅ぼしたいのではなく、救いたいのです。