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柔らかな応答

皆さんは心が乱れてしまったことはありますでしょうか。おそらく多くの方は心の乱れを経験されたことがあるのではないでしょうか。また、心が乱れている人と関わったこともあると思います。
自分は平和に過ごしたいのに、関わる相手の心が乱れていると、こちらの心も乱されてしまいます。

そして、心が乱れると、私たちは「怒る」ことも多くなるのではないでしょうか。
旧約聖書、蔵言29章22節にはこのようなことが書いてあります。

怒りやすい人、そして激しやすい人に対する警告です。ストレスが溜まり、心に平安がなくなると、私たちはあっという間に、怒りやすい人、そして激しやすい人になってしまいます。

蔵言15章18節には次のようなことも書いてあります。

この言葉を読んで、まさにその通りだと思われる方も多いのではないでしょうか。

そして、争いを鎮めるためには「忍耐深い人」が必要なのです。
忍耐深い人になりたいですね。

さて、怒りやすい人、また激しやすい人に対してどのように対応するか、もう一つ聖書の言葉をお伝えいたします。蔵言15章1節です。

この言葉も、その通りだなぁと思いませんか。私たちの心が平安の時、私たちの応答も柔らかくなりますが、心が乱れていると、言葉がきつくなり、傷づけてしまうこともあります。

聖書の神様は、怒りで浴れている世界において、柔らかな応答で平和をつくり出す、「平和の人」を求めておられます。そして、平和の人は、神様の言葉によって創りあげられるのです。

色々な人と関わる時、愛による柔らかな応答ができるように心がけたいと思います。

小金井の信徒への手紙 ~プロセス~

聖書の御言葉は私たちの生き方を変える力があります。
私たちは自分の人生を見つめ直し、生き甲斐のある幸福な日々を過ごしていきたいと願っています。そのために神様の救いのプロセスを確認しておく事は大切です。
それは聖書に示される神様の恵みによって、実際の行い(生活)はその信仰に伴って現れてきます。

・ 罪に気づく ▼聖書を素直に読んでいくと自分自身の罪に気づかされます。

・ 罪を認める ▼気づいた罪を認めるのには勇気がいり、心も痛みます。しかしそれを認めることができなければ罪はそのまま私たちの心に残ってしまいます。

・ 罪を悲しむ ▼罪を認めると自分自身の現状に悲しみや情けなさを感じてしまいます。それは時に憤りとなることもあります。もちろん自分に対しての憤りです。

・ 無力さを知る ▼罪に対して向かい合うと自分の力無さに気づきます。どうしたら良いかと思案すると、聖書は救い王を指し示します。

・ 救い王に委ねる ▼私たちは自分の全てを委ねることが苦手です。切羽詰まった状況に置かれなければ委ねられないのが現実です。神様にまったく明け渡すと救い王に対する深い信頼と愛が生まれてきます。

・ 悔い改める ▼イエス様との信頼関係、深い愛の結びつきを実感することにより私たちは素直に自分の罪を告白することができ、純粋な悔い改めへと導かれます。この悔い改めこそが救いの重要なポイントです。

・ 救い王を見つめる ▼立ち止まってイエス様を見る事が必要です。見ることによって(心の目で)心に変化がもたらされます。聖書を通して様々な角度からキリストを見つめることができます。

・ 救い王に学ぶ  ▼イエス様の素晴らしさに触れると、イエス様の事を学びたくなります。すると多くのことに気づき、更にイエス様を知ることになります。

・ 救い王に似た者 ▼イエス様を見つめ、イエス様を学ぶほど、多くの影響を受けます。必然的にイエス様の品性に近づいてゆくでしょう。

人は罪深く弱い存在です。悔い改めて神様の赦しを経験しても、失敗を繰り返してしまいます。しかし神様は私たちの弱さをご存じで、罪に対して無力であることを承知した上で、罪の赦しを与えて下さっています。それだけ私たちの罪が根深いということ以上に、神様の愛が更に深いことを示しています。神様は忍耐をもって導いて下さり、私たちを限界まで諦めることはありません。やがてイエス様が再臨なさるその時のために備えて下さっています。
7年間、皆様と共に歩むことができて感謝です。主にあって紡がれた絆が天の御国に至るまで続きますように。

※久保司牧師は4月1日よりSDA東京中央教会へ転任されます。小金井教会は4月1日付で島田隼人牧師が着任します。

イエス・キリストの生涯5 ~十字架「苦悩」~

神学生の頃、グループ研究発表で「十字架」をテーマにしたことがあります。その際、実際に少しスケールダウンした十字架を作ってみました。夕礼拝の時に発表ということで、赤い蛍光塗料を塗った十字架を司会者が担ぎ、ブラックライトで照らしながらの演出でした。後日、司会者だった彼は、肩にのしかかる十字架の重さにバプテスマを受けることを決心したそうです。
 「十字架」は様々なドラマを生み出すものだと思います。あなたの人生の中に「十字架」はどんな意味をもたらすでしょうか。

日頃イエス・キリストを妬み、憎んでいた祭司や律法学者たちは、法廷の場でイエスをどうにかして有罪にし殺そうかと企てます。
 ユダヤ総督ピラトは、群衆を前にイエスの裁判を行いましたが、何の罪も認めることができませんでした。しかし、イエスを妬む者たちに扇動され、そこに集められた群衆は「十字架につけよ!」と激しくピラトに迫りました。
 イエスはむちで打たれ、ののしられ、唾をはきかけられました。いばらで編んだ冠をもってきて頭にかぶせ、その上から棒でたたかれ、トゲはイエスの額に突き刺さり血が流れました。
 イエスはむち打たれたための疲労と苦痛と出血から衰弱されていました。それにもかかわらず、彼がまもなく釘付けされる重い十字架が、その肩に背負わされるのでした。

カルバリーという丘で、イエスの目の前に、十字架が横倒しにされています。その上に寝かされ、両手を伸ばされ、両足が重ねられました。そこに金槌と釘とが運ばれ、その釘がイエスの両手と重ね合わされた足に容赦なく打ち付けられました。
 イエスは、つぶやくことなくじっと耐えておられますが、苦痛のあまりうめき声を漏らします。彼の顔は青ざめ、大きな汗のしずくが浮かんでいます。
 十字架に釘づけられた後、その十字架ごと持ち上げられ、あらかじめ地面に掘られた穴に無造作に突き立てられました。体の重みによって、か細い掌骨が折れ、手足の釘が肉を裂き激痛が体全体に走ります。
 十字架の刑は死刑囚が餓死するまで放置するのが常でした。こうして苦しみながら死んでゆくのです。
 当時、十字架は呪われるべき恐ろしい刑罰であり、屈辱の極みだったのです。そしてその「苦悩」こそが私たちの 「罪」 を現し、その「罪」を「贖う」ためにイエスは犠牲となられました。(次号へ続く)

かけがえのないあなた(2)

今から160年程前、教会の指導者で教育家であったエレン・グールド・ホワイトは多くの本や手紙を書きました。その中の1冊に「クリスチャンの奉仕」があります。その6ページにこの様な事が書いてあります。
「一人一人にはそれぞれ大切な神様からの役割があります。自分の他誰も代わりをつとめることはできません。ですから、それを知らないふりをしたり、おろそかにしてはいけません。そして、その役割を果たすことは、あなたとまわりの人たちを幸福にします。」
ジグソーパズルのそれぞれピースはよく似ています。しかし、どこにはめても良い訳でははありません。はめられるのは一カ所だけです。そして、この一つでも失われてしまったら完成しません。神様にとって、私たちは一人でも失われたり、滅びてはいけないかけがえのない大切な存在なのです。

聖書の言葉によりますと

とあります。

私たちの心の中には「罪」があります。この「罪」は、いくら拭いても落ちない汚れのようなものです。削ってもとれない錆のようなものです。放っておくと心いっぱいに広がり、心の健康を奪い、ついには命を奪い取ってしまうのです。

聖書には「罪が支払う報酬は死です。」(新約聖書ローマの信徒への手紙6章23節)と書かれています。この恐ろしい「死」を私たちは自分の力で無くすことはできません。ですから、イエス様が無くしてくださるんです。どのようにしてでしょう?。それは、「罪」の支払う報酬をイエス様が肩代わりして下さることによってです。私の代わりにイエス様が罪の罰を受けて死んで下さったと言うことです。私たちが受けなくてはいけないのに、「あなたが大好きだから、心から愛しているから、あなたの代わりに私が命を捨てます。」とイエス様が十字架で死んで下さったんです。

先述した聖書の言葉の後の部分にこう書かれています。