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聖書に示されたお正月

明けましておめでとうございます。
昨年は新型コロナウイルスの感染拡大によって不安な一年を過ごしました。
今年はどんな年になるのでしょう。神様の導きと祝福がより多く与えられますことをお祈りいたします。

新年

さて、お正月について聖書はどのように捉えているか少しお話ししたいと思います。
実はお正月については旧約聖書にあります。
ただ、日本のお正月とは違い、秋なのです。

旧約聖書によりますと、正月は第七の月の一日になります。今のカレンダーで見ますと、その時は収穫が済んだ秋の九月の下旬か十月の上旬でした。
そして、その頃に過越の祭り(贖罪日)も行われました(出エジプト記12章より)。
今から三千年程前より、全てのイスラエル人は断食して、エルサレムの神殿で色々な儀式がなされていました。その儀式の目的は人々が犯した罪を清める事です。主に、生け贄(動物や収穫物)を捧げる事によって罪が贖われ、神様の赦しを受け、人々の間には和解が与えられました。

正月から贖罪日までの十日間、人々は神様の前に自分の生活、心、思いまでも吟味しました。自分が被告人のように全知全能の神様の裁判に出頭するような経験でした。そして、罪に気付いたら心からの悔い改めが必要となりました。「正月」は一年中最も厳粛な時だったのです。
ですから現在においても、お正月に神様に礼拝を捧げることは、年毎に新たな気持ちで神様と向き合うという意味で大切なのかもしれませんね。
神様は、節目節目に自らを見つめ直し、悔い改めて神様に立ち返る事を求めておられるのではないでしょうか。
どうか今年が良い年として導かれますように。

子羊

蛇足ですが・・・
お正月の「おとそ」。これを漢字で書くと「お屠蘇」です。屠とは屠る(ほふる)殺すこと、蘇は蘇る(よみがえる)ことで、この二つを合わせて「屠蘇」となるわけです。これもまた、お正月にちなんで、聖書の過越の祭りを思わせますね。

イエス・キリストの生涯4 ~裏切られて~

古今東西、「裏切り」ほど心を傷つけるものは無いと言われています。
 十字架にお架かりになる前に、愛する弟子たちと共に最後の晩餐をしながら、イエス・キリストは最後の最後まで人類の救いについて語り続けられます。
 しかし、そんな中、イエスは愛する弟子の一人が自分を裏切ることをご存じでした。

ゲッセマネの祈り

十二弟子の一人、イスカリオテのユダは銀貨30枚でイエスを裏切りました。これは、当時の 奴隷の値段でもありました。
 最後の晩餐の後、ゲッセマネと呼ばれる場所で、イエスは祈っておられました。
 神の御子イエス・キリストは苦悶の内に祈られます。大粒の血の汗がイエスの顔からしたたり落ちました。苦悩の内に打ちひしがれるイエスは、苦悩の内に三度祈られました。
 その時、武装した人々を引き連れた、イスカリオテのユダが現れます。彼はいつものようにイエスに近づき、挨拶をしました。武装した人々は、たちまちイエスを取り囲みます。イエスはじっと黙ったまま、縛られ、連行されてゆきました。
 日頃から正しく生きる模範を示し、多くの人々を愛し教え、また多くの人々から慕われるイエスにたいして、妬み、憎んでいた祭司や律法学者たちは、法廷の場でイエスをどうにかして有罪にし、殺そうと企てます。
 法廷において、ローマ総督ピラトは、群衆を前にしてイエスの裁判を行いました。ところが、彼はイエスに何の罪も認めることができませんでした。
 しかし、イエスを妬み、憎む者たちに扇動され、そこに集まった群衆は「イエスを十字架につけよ!」と激しくピラトに迫りました。その時、イエスは心穏やかに、平安の内にじっと黙して立っていました。イエスを妬み、憎む者たちは、そんなキリストにますます憎しみを向けて、声高く「十字架につけよ!」と狂気の叫びを上げ続けました。

人の心はなんと弱く空しいのでしょうか。悪意をもって権力を行使する者に対して正義を貫こうとする意志も無力化されてしまいがちです。「妬み」や「誹り」は諸悪の根源です。罪はここから起こると言っても過言ではありません。
 イエスを慕い愛する者の心さえも奪う悪に、私たちはどうやって立ち向かって行けばよいのでしょうか。(次号に続く)

前進

春は入学、進級、就職、また新たな目標を目指して前進するためのきっかけをもつことができる時です。きっと皆さんは新年度に向けて色々な計画を立てたり、新たな決心を胸に抱いておられると思います。

神様がもし「赦し」を実現して下さっていなければ(キリストの十字架がなかったら)、私たちの誰もが将来に対する希望を持つことはできなかったでしょう。しかも「後ろのものを忘れ」て前に向かうなどという積極的な生き方を得ることもできなかったと思います。

「後ろのものを忘れ」とは、キリストの十字架によるあがないによって与えられた「赦し」無くしては考えられないことです。神様の「許し」は完全であって、私たちのものとは全然別のもののようです。私たちは友達を許すと言いながら、その友達が同じような間違いを犯したとき、以前のことを思い出しそれを愚痴ってしまうことがよくあります。そしてより厳しく友達を裁こうとします。しかし神様は、一度「赦す」とおっしゃったら、本当に全てを忘れて下さり二度と思い出されないのです。あたかも最初からそんなことが無かったかのように私たちと関係を新たにして下さるのです。

また「後ろのものを忘れ」るとは、決して過去の全てを無くすことでもありません。これは神様が赦して下さったことをいつまでもくよくよ考えることをしなくてもよいと言うことであり、「目標を目指して」とあるように、過去に持ち続けた良きことをさらに推進していくことを示しています。

「赦される」ためには悔い改めが絶対条件です。それは私たちの罪に対する姿勢です。すなわち、自らの罪を認め、罪人であることを受け入れ、罪に対する悲しみを覚え、しかもその罪に対して自分が無力であることに気付く必要があります。そうすれば、おのずと救い主の必要を深く感じ入ることになるでしょう。その時、私たちの目の前にキリストがおられます。なんと幸いなことでしょう。これは、まさしく新しい旅立ちに向かう者にとっての備えの経験です。キリストと共に生きる人生を選んだ私たちは、常に「御言葉」を心の糧としながら「目標を目指してひたすら走ること」ができます。キリストによる希望に満ちた歩みが進められる事を心から願っています。