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年の初めに向けて

あけましておめでとうございます。皆様には良いお年を迎えられましたでしょうか。

教会では、元旦に元旦礼拝」を行い、一年の初めに神様の前で新しい一年が始められることの感謝を礼拝として現しました。

実はお正月については旧約聖書にあります。ただ、日本のお正月(1月1日)とは違い、2つのお正月があるようです。

イスラエル、古代ユダヤにおいても「新年」は必ずしもひとつではなく、聖なる祭りの始まる春の新年(宗教暦)と農耕用の秋の新年(生活・政治暦)と、新年は2種類あって、ユダ族(南王国)では後者を使っていたため、その流れで現代のユダヤ暦も政治暦のほうが用いられるようになりました。

宗教暦の年始めの月はニサンの月と呼ばれ、今の太陽暦(グレゴリオ暦)では3月から4月の時期にあたり、政治暦では第7の月で、9月下旬から10月上旬に当たります。

聖書的には宗教暦に注目したいのですが・・・

1月でもないこの月が最初の月とされた背景にはイスラエル国家の起源となる過越と出エジプトという歴史的出来事がありました。

ニサンとは「始まり、出立する」を意味しますが、イスラエル60万人(出エジプト記38章26節。男性だけの数という説なので、女性や子どもを合わせると200万人以上だと思われる)の民は過越を契機に400年間にも及ぶエジプトの隷属から解放され、約束の地ヘ出立したのでした。実は教会の起源も過越と出エジプトにあるようです。

その日は全てのイスラエル人にとってとても大切な日と定められていて、彼らは断食し、エルサレムの神殿では祭司達が色々な儀式を行いました。その儀式の目的は人々が神に犯した罪を清める事です。主に、生け贄を捧げる事によってイスラエルの罪が贖われ、神の許しを受け、人々は神様と新たに和解を与えられるとされました。罪に気付いたら、贖罪日の許しを受けるように、心からの悔い改めをしたいと思ったのです。

ですから、元旦礼拝は一概に非聖書的であるとは言えないと思います。何よりも、年ごとに新たな気持ちで神と向き合うという意味では私たちにとって大切なのかもしれませんね。

神様も正月ごとにとか、年ごととか、大事なけじめをつけて自らを見つめ直し、悔い改めて神様に立ち返る事を求めておられるのではないかと思います。

一年の計は元旦にあり

「一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にあり」(物事をうまくやるためには「計画」というものがなければならない。一日をうまく生きるには朝に、また一年を充実したものにするためには1月1日の朝に、それぞれ計画を立てるべきである。計画しないで行うのは無理、遅れた計画も無意味である。)

もし、あなたが今、「計画」のない人生を送ってしまっているとしたら・・・
おそらく、あなたの人生は、つまらないものになってしまうのでしょう。
「計画」を立てようとする際に、私たちが先ず考えるのは「目標」です。別の言葉に置き換えますと「夢」とか「希望」等と表現することができるのではないでしょうか。

自由学園の創設者でありました、羽仁もと子先生は、「夢なくして新しい年を迎えてはならない。」と言われました。
新しい年を迎えながら、その年に夢を持って望まないなんて、なんて悲しいことなんでしょう。人間は常に成長してゆこうとする草花のようなものです。美しい花を咲かせるために、一所懸命生きています。
その花は、道行く人々の目を楽しませ、心に優しさ、温かさを与えます。決して自分のために美しく咲くのではありません。人々の幸福のために自由に生きているのです。

アメリカの教育家で、盲聾唖の三重苦を克服し、社会事業に貢献した、ヘレン・ケラー女史は、「希望は、人を成功に導く信仰である。希望がなければ、何事も成就されるものではない。」と語っています。
希望は私たちの心に力を与えます! 悲しみや困難に、心が押しつぶされそうに感じるとき、人生を諦めようとしたとき、裏切られ失望しているとき、そこに一筋の希望を見いだせたらどうでしょう?
朽ち果ててしまいそうな心に、力が注がれます。その力は神経や血管、筋肉に骨格に、身体の全ての細胞に、力をみなぎらせるのです。
そして、これらの「希望」は古より各時代の人々に幸いを与え、更に時空と地域を越えて、現代の私たちに至るまで力を与えています。
神様が、私たち一人一人に、与えんが為に約束し用意して下さっている、大きな祝福に向かって「夢と希望」をもって新しい年をスタートしましょう。