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人生のレースを走る

秋はスポーツを楽しむのに気持ちのよい季節です。スポーツをする人は、それぞれの目標に向かって練習を重ねます。短い距離を全力で走る競技もあれば、長い距離を走り続ける競技もあります。

聖書は、私たちの信仰生活をレースにたとえています。ヘブライ人への手紙には、

と記されています。そして、

と続きます。

人生は、短距離走というよりも長距離走に似ているのかもしれません。順調に進む日もあれば、思うように前に進めない日もあります。疲れて立ち止まりたくなることや、失敗して転んでしまうこともあるでしょう。周りの人と自分を比べて、「自分はダメなのではないか」と不安になることもあります。

しかし、人生のレースで大切なことは他の人より速く走ることではなく、神様が私たち一人ひとりに与えてくださった道を、最後まで走り続けることのようです。そして、そのために必要なのは、自分の力を頼りにすることではなく、私たちの目をイエス様に向けるように、聖書は教えています。

私たちは、一人だけで走っているのではありません。疲れたときには、私たちを支えてくださるイエス様を見上げましょう。苦しいときには、イエス様に助けを求めましょう。転んだときにも、主は私たちを起こし、再び歩ませてくださいます。

スポーツの秋を迎えるこの季節、体を動かすこととともに、自分自身の人生の歩みについても考えてみたいと思います。どんなにゆっくりでも、一歩ずつ前に進むことができます。そして後になって気づくのではないでしょうか。「あの時の悲しみがあったからこそ、今の喜びがある。あの時の苦しみがあったからこそ、人にやさしくすることが出来る」と。イエス様から目を離さず、希望を持って、与えられた人生のレースを忍耐強く走り抜いていきましょう。

無限の可能性

夏休みが始まりました。この時期、お子様やお孫様と一緒に過ごす時間が増えた方も多いのではないでしょうか。子どもたちの健やかな成長のために大切なことの一つは、その子のうちに神様が与えてくださった可能性を見ることではないでしょうか。

エレン・ホワイトは、イエス・キリストについて次のように記しています。

「ひとりびとりの人間の中に、キリストは無限の可能性をみとめられた。キリストは人類を、ご自分の恩恵によって……生まれ変わらせ得る者としてご覧になった。希望を持ってご覧になったキリストは、その希望を人々の心に吹き込まれた。信頼をもって人々に接したキリストは、人々の心に信頼を吹き込まれた。」

(エレン・ホワイト著『教育』)

イエス・キリストは、「もう、この人はダメだ」「絶対に変わることはない」と言って、人々を希望のないものとして、その心に絶望を与えることはありませんでした。どれほど失敗し、周囲から見放された人であっても、その人のうちに神様が備えておられる可能性を見つめ、信頼をもって接してくださいました。そのまなざしは、人々の心に「キリストの目にとまるような者でありたい」という願いを生じさせ、「自分も変わることができる」という信頼を生み出しました。

聖書は、「恵みの賜物は罪とは比較になりません」(新約聖書ローマの信徒への手紙5章15節)と語ります。神様の恵みは、どんな罪よりも大きく、人を新しく造り変える力があります。私たちも、イエス様のまなざしを持ち、「神様はあなたを愛しておられる。神様はあなたに無限の可能性を与えてくださっている」と希望の言葉をかけていきたいと思います。そのような言葉やまなざしは、一人ひとりの心に信頼と希望の種をまき、神様はその種を豊かに実らせてくださるでしょう。

はじめまして

はじめまして。このたび当地域の教会(セブンスデー・アドベンチスト小金井教会)に着任しました牧師の平賀和弘と申します。どうぞよろしくお願いいたします。これからどのような出会いが与えられ、すばらしい出来事が起こるのか、楽しみにしています。

さて、聖書には、神さまご自身が自己紹介された時の様子が記されています。神さまはモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト記3章14節)と語られました。この言葉は、不思議でありながら、深い慰めと希望に満ちています。

神さまがこのように自己紹介されたのは、モーセが使命に戸惑い、自分の弱さに目を向けていた時のことでした。内外の敵や大きな課題を前にして、おじけづいたモーセは、「わたしは何者でしょう」と神さまに訴えます。その言葉には、「自分にはできません」という思いが込められているようです。モーセは、神さまからゆだねられた働きを拒もうとするのです。


「わたしはある」とは、神さまが過去も現在も未来も、またどんな状況であっても変わることなく存在し、導いてくださっていることを示しています。今この瞬間にも、神さまは私たちと共におられます。モーセにとって必要なのは、「自分が何者なのか」ではなく、「神さまが共にいてくださる」という事実でした。

神さまは、遠くから見ているだけのお方ではありません。悩みや不安のただ中にいて、共に歩み、必要な力と導きを与えてくださいます。だからこそ私たちは、自分の力や状況ではなく、「わたしはある」と語ってくださる神さまに信頼して歩むことができます。

どのような日にも共にいて導いてくださるという神さまの約束に支えられながら、一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

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地域の皆さまの上に平安がありますようにお祈りしています。どうぞお気軽に教会ヘお立ち寄りください。

心強い味方

皆さんには、心強い味方はいますでしょうか。
数年前のバスの中。一歩も動けないほど混んでいました。私の前には、小柄なおばあちゃんが立っていました。
しばらくして、おばあちゃんはそわそわしながら近くの男性に伝えました。
「出口のドアの近くに行っておきたいので、通してくださいますか?」
すると男性は、おばあちゃんに優しく答えました。
「お気持ちはわかりますが、今は動けない状況なので・・・」
それを聞いた、おばあちやんは、がっかりした様子でその場に立ち続けました。


バスは進み、いよいよおばあちゃんが降りるバス停の近くに来ました。出口の方を見ながら不安そうにしているおばあちゃんに、男性は言いました。
「わたしもここで降ります。」
この言葉を聞いたおばあちゃんは安心した口調で言いました。
「あ〜、心強い味方ができた。」
おばあちゃんは、男性の後を歩きながらバスを降りていきました。

新約聖書ヨハネによる福音書12章46節と47節には次のように書かれています。


今日、希望もなく暗闇の中にいる人はいないでしょうか。平然を装いながらも、心は暗闇の中にいる方もいるかもしれません。

聖書のメッセージはとてもシンプルです。男性の後ろを歩いて出口に向かったおばあちゃんのように、イエスさまの言葉についていくならば、そこには希望があるのです。
自分の力では得ることのできない平安へと導いてくださるのです。

この世界は満員バス状態かもしれません。
不安の中に生きている人が沢山います。
この不安を、平安と喜びに変えるためにイエスさまはこの世界に飛び込んできてくださいました。このイエスさまを「知る」時に、私たちも、おばあちゃんが言ったように、「あ〜、心強い味方ができた」と安心することができるのです。

ナインワンワン

9月11日と聞くと何を思い出しますか?

24年前、アメリカで同時多発テロ事件があった日としても覚えられている日です。

ニュ―スで何度も流れる映像を覚えている方も多いのではないでしょうか。

さて、アメリカで911、つまリナインワンワンとは、緊急通報用の電話番号です。

日本では警察は「110番」、消防や救急車は「119番」ですが、アメリカではどちらも 「911番」に電話します。つまり、助けを求める番号はただ一つ、ナインワンワンなのです。

私たちは、苦しみの時、助けを必要としている時、どこに助けを呼び求めていますでしょうか。聖書の神様は、助けを呼び求めて欲しいと言っています¨旧約聖書の言葉を3つ紹介いたします。

一つ目は詩篇50篇15節です。

二つ目はエレミヤ書33章3節です。

そして、三つ目は詩篇34篇6節です。

私たちは生きていると、様々な試練や困難を経験します。そのような時に、聖書の神様は、呼び求めて欲しいと願っているのです。

人間的に考えて絶望的な状況においても、神様は必要な助けを送ってくださると約束してくださっているのです。

今日、試練の中、苦難の中を通っている方もいると思います。聖書の神様は、お一人お一人を呼んでおられます。そして、この呼びかけに答えるか否かは私たち一人一人の選択に委ねられているのです。

24時間いつでも聞いてくださる、ナインワンワン。

聖書の神様を呼び求めてみませんか。

目からうろこ

いよいよ、暑い夏がやってきますが、皆さんお元気でお過ごしでしょうか。
さて、「目からうろこ」について考えてみたいと思います。
「目からうろこ」とは、急に何かのきっかけで物事の実態が分かり、理解できるようになることのたとえです。皆さんは目からうろこが落ちる体験をしたことはありますでしょうか。
「目からうろこ」という言葉は、新約聖書使徒言行録9章18節からきた言葉と考えられています。その箇所を読ませていただきます。

目からうろこのようなものが落ちた経験をしたのは、サウロという男性です。サウロは聖書をよく知っていましたが、イエス・キリストを救い主として信じていませんでした。それどころか、イエス・キリストを信じている人を迫害し、捕らえては牢獄へと送り込んでいました。そのため、当時の信者の間では、サウロは迫害者として有名で、恐れられていたのです。
そんなサウロが、ある日イエス・キリストと出会うことになります。その出会いの衝撃のあまり、サウロは3日間、目が見えなくなったのです。この3日間、サウロは何をしていたのでしょうか?

聖書を読むと、サウロは何も食べず、飲まず、ただただ祈っていたというのです。
自分が今まで信じていたものが間違っていたのだろうか?自分は神様のために活動していたと思っていたサウロは、実は神様の敵の働きをしていたことに気づかされます。
3日後、アナニヤという男性がサウロの所に遣わされます。そして、アナニヤがサウロの上に手を置いて祈った時に、サウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおりに見えるようになったのです。サウロは、救い主であるイエス・キリストについてはっきり理解できるようになりました。
そして、偉大な伝道者『パウロ』としての人生がスタートしていくのです。

聖書の神様は、私たち一人一人にサウロと同じ体験をしてほしいと望んでおられます。イエス・キリストは私たち一人一人と個人的に出会いたいと望んでおられるのです。
そして、イエスさまに出会った時に、私たちの目からうろこが落ち、サウロのような新しい人生が始まるのです。

一年の計は元旦にあり

「一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にあり」(物事をうまくやるためには「計画」というものがなければならない。一日をうまく生きるには朝に、また一年を充実したものにするためには1月1日の朝に、それぞれ計画を立てるべきである。計画しないで行うのは無理、遅れた計画も無意味である。)

もし、あなたが今、「計画」のない人生を送ってしまっているとしたら・・・
おそらく、あなたの人生は、つまらないものになってしまうのでしょう。
「計画」を立てようとする際に、私たちが先ず考えるのは「目標」です。別の言葉に置き換えますと「夢」とか「希望」等と表現することができるのではないでしょうか。

自由学園の創設者でありました、羽仁もと子先生は、「夢なくして新しい年を迎えてはならない。」と言われました。
新しい年を迎えながら、その年に夢を持って望まないなんて、なんて悲しいことなんでしょう。人間は常に成長してゆこうとする草花のようなものです。美しい花を咲かせるために、一所懸命生きています。
その花は、道行く人々の目を楽しませ、心に優しさ、温かさを与えます。決して自分のために美しく咲くのではありません。人々の幸福のために自由に生きているのです。

アメリカの教育家で、盲聾唖の三重苦を克服し、社会事業に貢献した、ヘレン・ケラー女史は、「希望は、人を成功に導く信仰である。希望がなければ、何事も成就されるものではない。」と語っています。
希望は私たちの心に力を与えます! 悲しみや困難に、心が押しつぶされそうに感じるとき、人生を諦めようとしたとき、裏切られ失望しているとき、そこに一筋の希望を見いだせたらどうでしょう?
朽ち果ててしまいそうな心に、力が注がれます。その力は神経や血管、筋肉に骨格に、身体の全ての細胞に、力をみなぎらせるのです。
そして、これらの「希望」は古より各時代の人々に幸いを与え、更に時空と地域を越えて、現代の私たちに至るまで力を与えています。
神様が、私たち一人一人に、与えんが為に約束し用意して下さっている、大きな祝福に向かって「夢と希望」をもって新しい年をスタートしましょう。