「イエス」タグアーカイブ

受けるより与える人生

10月3日は何の日かご存知でしょうか。10月3日はアンパンマンの日だそうです。
今から36年前の、1988年の10月3日に、「それいけ―アンパンマン」の放送が開始されたようです。子供から大人まで、みんなのヒーローのアンパンマンですが、私はオープニングの主題歌である、「アンパンマンのマーチ」がとても大好きです。
少しだけ、歌詞を紹介いたします。

なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!

とても考えさせられる歌詞だと思います。
なんのために生きているのか?この意味がわからないなんていやだ!とても正直な気持ちではないでしょうか。また、次のような歌詞もあります。

なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ
わからないままおわる そんなのはいやだ!

なにが君のしあわせ? なにをして喜ぶ?
この質問に対して、皆さんはどう答えますでしょうか?
この大切な質問に対する答えを、聖書はどのように言っているのでしょうか。
新約聖書の使徒言行録20章35節に次のようなことが書いてあります。

受けるより与える生き方。これこそ、幸せに生きる生き方だというのです。
プレゼントをもらう(受ける)喜びも大きいですが、誰かに、プレゼントを与えた時の喜びは更に大きいのではないでしょうか。相手の喜ぶ顔を見た時に、本当に良かったと、一緒に喜べるのです。

2000年前、イエス・キリストは与えるために生まれました。与えて、与えて、そして、最後には十字架において自分の命をも与えたのです。
誰に与えたのでしょうか?私たち一人ひとりに与えてくださいました。

イエス・キリストの十字架と自分の人生が関係ある?実感がないかもしれません。
自分とは関係ない昔のお話と思われるかもしれません。
しかし、聖書は、イエスさまの十字架の死は、私たちに命の意味を知るため、そして幸せに生きるための神様からのプレゼントだと言いうのです。あなたへのプレゼントなのです。

乱れた心には、これ一つだけ

先日息子に次のような質問をしました.
「遠足に持っていくお菓子を一つだけ選ぶとしたら、何を選ぶ?」
しばらく悩んだ息子は、しばらくして、残念そうな声でこう言いました。
「なんで一つだけなの・・・」
一つだけと言われると、なんとなく選択肢が無くなりつまらなく感じるかもしれません。

さて、聖書にも 「一つだけ」と書いてある箇所があります。しかも、平安な心で生きるために必要なのは「一つだけ」というのです。
新約聖書ルカによる福音書10章38節から42節にマルタとマリアという二人の姉妹のお話が出てきます。マルタとマリアの家にイエスさまが来られた時、姉のマルタはイエスさまたちをもてなすために一生懸命働いていました。しかし、妹のマリアは、もてなすために動こうとはせずに、イエスさまの足もとに座って、ずっとお話を聞いていたのです。

続きを読む 乱れた心には、これ一つだけ →

互いに愛し合う

小学生の頃、親戚のおばさんと一緒にショッピングセンターに行った時のことです。おばさんは、お小遣いとして私に千円くれたのです。千円という大金に、私の心は驚きと喜びで満たされました。
さあ、千円もあるぞ!何をしよう.・・・
まず自動販売機に行って缶ジュース(確かファンタグレープ)を買って飲んだことを覚えています。
その後、ゲームセンターへ行き、自分の好きなゲームで遊び、楽しいひと時は終わりました。
おばさんにいただいたお金を、全て自分のために使い、お金はあっという間に無くなったのです。

聖書には富に対する教え、つまりお金に関する教えが沢山書かれています。
神様は私たちに富を委託されます。委託された富をどのように使うかは私たち一人ひとりに委ねられているのです。自分のためにだけに使うのか、、、それとも誰かのために使うのか、、、
これは富だけではなく、私たちに与えられている時間や才能なども全て含まれるのです。
神様は私たちに言います。
「あなたにこの富を与えるよ。この富を用いて周りを幸せにしてね!」
「あなたにこの才能を与えるよ。この才能を使って周りを元気づけてね!」
神様から委託されたものを用いて周りを幸せにすること!これこそ神様が人間に与えてくださった互いに愛し合う生き方なのです。

新約聖書ヨハネによる福音書13章34節にイエス・キリストの言葉が書かれています。

イエス・キリストは私たちを愛するがゆえに十字架で命を捧げてくださいました。
この愛を知った時に、私たちも互いに愛し合う生き方へと変えられるのです。

私たちを愛し、そして互いに愛し合うことを教えてくださったイエス・キリストの生涯を学んでみませんか。

ちょっとでも聖書に興味のある方、お気軽にお知らせください。

突き抜ける

皆さんは「突き抜けた生き方」と聞くとどのようなイメージを持ちますでしょうか?
なんとなく、迷いがなく、吹っ切れていて、生き方に力強さと安定を感じませんでしょうか。

皆さんは、突き抜けた生き方をしている人に出会ったことはありますか?
もしくは、突き抜けた生さ方をしてみたいなぁ―と思ったことはありませんでしょうか。わたしはいつも、突き抜けられたら、楽になるんだろうなぁ~と思いつつも、なかなかできない自分と葛藤しています。

聖書には「突き抜けた生き方」を選んだ人たちのお話が沢山出てきます。
では、なぜ、その人たちは突き抜けられたのでしょうか・・・
聖書を読むと、全員に共通点があるのです。その共通点とは、「突き抜けた方に出会い、突き抜けた方に従っていく決断をした」ということです。そして、この突き抜けた方こそが、イエス・キリストなのです。

新約聖書のマタイによる福音書16章24節にイエス・キリストの言葉が書いてあります。

とても、覚悟を感じる言葉ではないでしょうか。
「わたしについて来たい者は」という言葉には、なんとなく、
わたしと一緒に突き抜けたい者は!
という言葉にも聞こえてきます。
突き抜けるためにはまず、自分を捨てること、つまり、自分の願いを優先するのでなく、神様を第一とする生き方です。
次に、自分の十字架を背負うこと。苦しみや試練は必ずあります。しかし、それら全てに勝利してくださった方、イエスさまが一緒に歩んでくれることを信じる生き方です 。

**********************

イエスさまは、今日も私たち一人一人を招いておられるのです。
自分で頑張って突き抜けるのではなく、イエスさまに従うことによって、突き抜ける心が与えられ、突き抜けた生き方へと変えられるのです。
十字架の死を通して私たちに愛を示されたイエス・キリストに出会ってみませんか。

ちょっとでも聖書に興味がある方、お気軽にお知らせください。

はじめの一歩

2024年が始まりました。1年がスター卜するにあたって、今年の決意など、決めた方もいるのではないでしょうか。私は、定期的に運動することを決意しましたが、続くかどうか心配です。

さて、聖書の中に、湖の上を歩いたイエス・キリストのお話しがあります。そして、このお話には、イエスさまと一緒に水の上を歩くという信じられない体験をしたペテロという男が出てきます。ペテロは水の上に立っているイエスさまの方へいくために、水の上を一歩一歩進みます。どきどきしながら、そしてイエスさまを見つめならが、慎重に歩いていきました。しかし、途中で強い風や波が怖くなってしまい、溺れてしまうのです。
ペテロは叫びました、「主よ、助けてください!」
溺れたぺテロをイエスさまはすぐに手を伸ばして助けられたというお話です。
このお話は新約聖書・マタイによる福音書14章に書いてありますので、是非一度読んでいただければと思います。

順調に水の上を歩いていたペテロでしたが、なぜ溺れてしまったのでしょうか。
それは、強い風や波に気を取られてしまい、湖の上で待っておられるイエスさまから目を離してしまったからです。ここでいう「強い風や波」とは、私たちが人生の中で経験する様々な試練のことです。聖書は、試練の中においても私たちに平安と希望を与える方に目を注ぐようにと教えているのです。

新約聖書へブライ人への手紙12章1~2節には次のような言葉があります。

2024年、私たちの歩む人生には楽しいこともあれば、様々な試練を経験するかもしれません。
しかし、どのような時にも、「イエスさまを見つめながら」歩む1年になればと思います。
とはいえ、人間はとても弱いです。
私たちもペトロのように強い風や波を経験し、溺れることもあるかもしれません。
しかし、そのような時にも「すぐに」手をのばしてくださる方から目を離さずに歩みたいと思います。

新しい1年も、皆さんの上に主の豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。

イエス・キリストの生涯3 ~公生涯を通しての模範~

明けましておめでとうございます。

新しい年を迎えて目標を持つことは大変有意義なことです。私たちはできるだけ確かで高い目標を目指すこ とが必要です 。

イエス・キリストは私たちの模範として人性をとられ、この世で生きて下さいました。

イエスはパプテスマの後にサタンに試みられるため荒野に導かれ、四十日間の断食の最終日にサタンの誘惑を打ち破り、地上での最後の働き「公生涯」に入られました。

イエスの生涯は、思いやりと、真の同情と愛の言葉に満ちていました。野で山で、町で、神殿の中で、あらゆる場所でイエスは祝福の言葉を語られ、父なる神を、天国を、そして救いを人々に教え示されました。

どんな者にも分け隔てなく、イエスは喜んで人々に会い、交わりを求められました。悩むものに平安を、病の者には癒しを、罪ある者にはその悔い改めに従って、赦しを与えられ、奇跡を通して神の力と愛とを証しなさいました。貧しい者には惜しみなく分け与え、神の深き愛をもって人類を今もなお愛し続けられました。

しかし、イエスの愛の奉仕にもかかわらず、人の心は罪によって弱り、その救いを受け入れられなくなってしまっているのをご覧になり、嘆き悲しまれるのです。

イエスは祈りのお方でした。

朝、まだ暗い内に起きられ、一人寂しい場所に行き、父なる神との一対一のの交わりを祈りを通してもたれました。

祈りとは、神様に語る唯一の方法で、私たちの心を育て、強め、支えるための営みでもあります。祈りとは心を神に打ち明けることです。自分の事を神様に知らせる必要があるのではなく、神様を受け入れるために必要な行為なのです。つまり、祈りは神様を私たちの所に呼びおろすのではなく、私たちを神様のもとへ引き上げるものなのです。

イエスは仕えるお方でした。

私たちに奉仕の喜びをお示しになりました。奉仕は人間にとって最高で崇高な喜びと満足を与えるものです。

イエス・キリストは最後の最後まで人々に対する奉仕をなさってゆきました。しかも、この世の最も小さい者の一人一人のために仕えてゆき、深い神様の愛と恵みを示され、弟子たちをはじめとする、全ての人々の模範となられたのです