「試練」タグアーカイブ

忘れないように

皆さんは「訓練」という言葉は好きでしょうか?
なんとなく、辛く、苦しいイメージがありますが、その先には成長した自分を想像できるかもしれません。
旧約聖書、申命記8章5節には、次のように書かれています。

聖書の神様は、時に私たちを「訓練」するというのです。その目的は、神様に頼ることを忘れないようにするためであり、私たちの幸せのためなのです。

聖書の神様が私たちに知らせたいこととは、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ということです。つまり、私たちに与えられている「主の言葉」である聖書の言葉に頼ることを知らせたいのです。

この通信を読んでくださっている皆さんも、今まで様々な訓練、試練を経験されたと思います。
まさに、今、その試練の中を生きている方もいると思います。
辛すぎて、苦しすぎて、この試練、訓練の先にある成長や幸せなど考えられないこともあると思います。
試練の中、苦難の中において覚えておきたいイエス・キリストの言葉を紹介いたします。
新約聖書ヨハネによる福音書16章33節です。

苦難はあるけど、それらすべての苦難に勝利された方、イエス・キリストの言葉に信頼し、皆さんお一人お一人に神様からの平安と勇気が与えられますようにお祈りいたします。

私ごとですが、この3月を持ちまして、小金井教会の牧師を離れることとなりました。
通信を通してですが、皆さんとお会いできたことを感謝いたします。ありがとうございました。
4月より新しい牧師が着任しますので、今後とも小金井教会をよろしくお願いいたします。

柔和な人

2026年がスタートしました。本年もよろしくお願いします。

さて、皆さんは、「柔和な人」でしょうか?
もしくは、家族や友人に「柔和な人」はいますでしょうか。「あなたは柔和ですね!」と言われて、嫌な気持ちになる人は少ないのではないでしょうか。わたしも、いつも柔和な人でいたいな〜、とは思っていますが・・・なかなか難しいですね。
忙しい時や、ストレスが溜まっている時、私たちは柔和でいることが難しくなります。

さて、新約聖書のマタイによる福音書5章5節にはこう書かれています。

とてもシンプルでストレートな言葉です。柔和な人々は幸いな人たちであり、地を受け継いで長く幸せに生きるのです。

もう一つ、新約聖書エフェソの信徒への手紙4章2節を紹介します。

聖書に出てくる 「柔和」という言葉には、優しい、素直、忍耐強い、おとなしい、従順などの意味が込められているようです。では、どうすれば 「柔和な人」になれるのでしょうか?
聖書にはその答えが書かれています。

「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。」
エフェソの信徒への手紙4章1節

神様から招かれて、主であるイエス・キリストと結ばれること。これこそが、「柔和の人」になる道なのです。そして、この招きは全ての人へ向けられています。

2026年、楽しいこともあれば、試練もあるかもしれません。また、今まさに試練の中で生きている方もいるでしょう。

どのような時でも 「柔和な心」を与えてくださる神様のお守りをお祈りいたします。

ナインワンワン

9月11日と聞くと何を思い出しますか?

24年前、アメリカで同時多発テロ事件があった日としても覚えられている日です。

ニュ―スで何度も流れる映像を覚えている方も多いのではないでしょうか。

さて、アメリカで911、つまリナインワンワンとは、緊急通報用の電話番号です。

日本では警察は「110番」、消防や救急車は「119番」ですが、アメリカではどちらも 「911番」に電話します。つまり、助けを求める番号はただ一つ、ナインワンワンなのです。

私たちは、苦しみの時、助けを必要としている時、どこに助けを呼び求めていますでしょうか。聖書の神様は、助けを呼び求めて欲しいと言っています¨旧約聖書の言葉を3つ紹介いたします。

一つ目は詩篇50篇15節です。

二つ目はエレミヤ書33章3節です。

そして、三つ目は詩篇34篇6節です。

私たちは生きていると、様々な試練や困難を経験します。そのような時に、聖書の神様は、呼び求めて欲しいと願っているのです。

人間的に考えて絶望的な状況においても、神様は必要な助けを送ってくださると約束してくださっているのです。

今日、試練の中、苦難の中を通っている方もいると思います。聖書の神様は、お一人お一人を呼んでおられます。そして、この呼びかけに答えるか否かは私たち一人一人の選択に委ねられているのです。

24時間いつでも聞いてくださる、ナインワンワン。

聖書の神様を呼び求めてみませんか。

見捨てない

皆さんは、「見捨てる」という言葉を聞くと、どのような思いになりますか。
「見捨てた」、もしくは、「見捨てられた」。
どこか関係が切れてしまい、孤独を感じます。そして、心が寂しくなるような言葉ではないでしょうか。
聖書の神様は、私たちがどのような状況にあっても、決して見捨てない神様です。
旧約聖書詩編9編11節には、次のようなことが書いてあります。

新約聖書ルカによる福音書15章に、100匹の羊と羊飼いのたとえ話があります。
ある時、1匹の羊が迷子になってしまいます。100匹いるうちの1匹です。残り99匹います。
皆さんが羊飼いでしたら、どうしますか?
まだ、99匹いるから1匹くらい、いいやと思いますか?それとも、迷子になった1匹を見捨てずに探しに行きますか?
このたとえ話では、羊飼いは99匹を野原に残して、失った1匹を探しに行きます。
決して見捨てないのです。たとえ話の羊飼いとは、イエス・キリストをあらわしています。そして、迷子になっている1匹の羊は私たちなのです。


たとえ話の最後は、羊飼いが無事に迷子になった1匹を見つけ出し、喜びで終わります。イエスさまは、迷子になってしまい、不安の中に生きている一人一人を探しておられるのです。そして、決してあきらめず、見捨てることはないのです。

今日、試練の中、不安の中、または孤独を感じながら生活している方もいるかもしれません。
聖書の神様は、あなたを探し続けているのです。
羊飼いであるイエスさまに出会った時、この世が与えることのできない平安が私たちの心を満たすのです。ぜひ、見捨てない神様に心を向けてみませんか。

それでは、皆さんの心に平安がありますように。

自分にがっかり

皆さんは、「自分にがっかり」したことはありますか?弱さを感じ、情けなくなり、自分が嫌になる経験です。かなりのポジティブ人間でない限り、誰しも経験するのではないでしょうか。
では、自分にがっかりした時、皆さんはどのように、その状態を乗り越えていますでしょうか?中には、乗り越えることができずに苦しみ続けている人もいるかもしれません。

聖書の中にも、自分にがっかりして落ち込んだ男がいます。イエス・キリストの弟子である、ペトロという男です。彼は、何があってもイエスさまについて行きますと言いながらも、すぐにイエスさまを裏切ってしまった男です。裏切ってしまった後、ペトロは泣きました。あまりにも自分が情けなさすぎて、激しく泣いたのです。
しかし、ペトロの弱さをイエスさまはよくわかっていました。そして、そんなペトロを心から愛していたのです。ペトロの弱さをわかっていたイエスさまは、私たち一人ひとりの弱さをもわかってくださる方なのです。

新約聖書のヘブライ人への手紙4章15~16節には、次のように書かれています。

ここで出てくる「大祭司」とはイエス・キリストのことです。イエスさまは、わかってくれるのです。弱くて、情けなくなる私たちの状態に同情してくださり、助けてくださるのです。
あのペトロに対しても、イエスさまは励ましと、立ち直るための言葉を残していました。
新約聖書ルカによる福音書22章32節には次のように書いてあります。

ペトロは立ち直りました。そして、多くの人を力づける伝道者となったのです。
自分にがっかりした経験を通して、ペトロは成長しました。そして、その成長を助けたのは、イエスさまの愛の言葉だったのです。

はじめの一歩

2024年が始まりました。1年がスター卜するにあたって、今年の決意など、決めた方もいるのではないでしょうか。私は、定期的に運動することを決意しましたが、続くかどうか心配です。

さて、聖書の中に、湖の上を歩いたイエス・キリストのお話しがあります。そして、このお話には、イエスさまと一緒に水の上を歩くという信じられない体験をしたペテロという男が出てきます。ペテロは水の上に立っているイエスさまの方へいくために、水の上を一歩一歩進みます。どきどきしながら、そしてイエスさまを見つめならが、慎重に歩いていきました。しかし、途中で強い風や波が怖くなってしまい、溺れてしまうのです。
ペテロは叫びました、「主よ、助けてください!」
溺れたぺテロをイエスさまはすぐに手を伸ばして助けられたというお話です。
このお話は新約聖書・マタイによる福音書14章に書いてありますので、是非一度読んでいただければと思います。

順調に水の上を歩いていたペテロでしたが、なぜ溺れてしまったのでしょうか。
それは、強い風や波に気を取られてしまい、湖の上で待っておられるイエスさまから目を離してしまったからです。ここでいう「強い風や波」とは、私たちが人生の中で経験する様々な試練のことです。聖書は、試練の中においても私たちに平安と希望を与える方に目を注ぐようにと教えているのです。

新約聖書へブライ人への手紙12章1~2節には次のような言葉があります。

2024年、私たちの歩む人生には楽しいこともあれば、様々な試練を経験するかもしれません。
しかし、どのような時にも、「イエスさまを見つめながら」歩む1年になればと思います。
とはいえ、人間はとても弱いです。
私たちもペトロのように強い風や波を経験し、溺れることもあるかもしれません。
しかし、そのような時にも「すぐに」手をのばしてくださる方から目を離さずに歩みたいと思います。

新しい1年も、皆さんの上に主の豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。

わかるよ

皆さんは「わかるよ」という言葉をつかったことはありますか?
酸っぱい梅干しを食べている人を見るだけで、自分の口の中もすっぱくなることありますね。そんな時、私たちは「ああ、わかる!」と言ったりもします。

では、苦しんでいる人に対して、試練の中を生きている人に対して、その気持ち「わかるよ」と言えるでしょうか。

牧師になるために、神学を学んでいた時、1人の先生の言葉が忘れられません。
その先生はこう言ったのです。
「牧師になると、様々な悩みを聞くことも増えると思います。しかし『わかるよ』とは決して軽々しく言ってはならないよ。なぜなら、わかるはずがないんだ!」今でも強烈に覚えています。
その先生も、おそらく多くの苦しみや試練を経験されたのだと思います。

私たちは生きていると、様々な苦しみや試練を経験します。
私たちが経験する苦しみ、悲しみ、または心の虚しさを完全に、または100%理解できる人はいません。

しかし、聖書には、あなたの苦しみを完全に、そして100%わかる方が1人いる!というのです。その方こそ、イエス・キリストです。新約聖書へブライ人への手紙2章18節には次のような言葉があります。

イエスさまは言えるのです。
「わかるよ、その苦しみ、その試練、辛いよね。わたしもその試練を通った。大丈夫だ、わたしが共にいる!」
私たちが経験する全ての試練を受けてくださった方だからこそ、私たちを助け、救い出すことができるのです。このイエスさまに出会い、「わかるよ」と言うメッセージを受け入れた時、私たちの心に平安が与えられるのではないでしょうか。全てをわかってくれる方がいるという喜びこそ、聖書の福音でもあるのです。

今日、苦しみの中、試練の中を生きている人たちが大勢いると思います。
誰にも理解してもらえずに、悩み苦しんでいる人もいると思います。
私たちに「わかるよ」と優しく声をかけ、慰め、力を与えてくださるイエス・キリストに出会ってみませんか。