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心強い味方

皆さんには、心強い味方はいますでしょうか。
数年前のバスの中。一歩も動けないほど混んでいました。私の前には、小柄なおばあちゃんが立っていました。
しばらくして、おばあちゃんはそわそわしながら近くの男性に伝えました。
「出口のドアの近くに行っておきたいので、通してくださいますか?」
すると男性は、おばあちゃんに優しく答えました。
「お気持ちはわかりますが、今は動けない状況なので・・・」
それを聞いた、おばあちやんは、がっかりした様子でその場に立ち続けました。


バスは進み、いよいよおばあちゃんが降りるバス停の近くに来ました。出口の方を見ながら不安そうにしているおばあちゃんに、男性は言いました。
「わたしもここで降ります。」
この言葉を聞いたおばあちゃんは安心した口調で言いました。
「あ〜、心強い味方ができた。」
おばあちゃんは、男性の後を歩きながらバスを降りていきました。

新約聖書ヨハネによる福音書12章46節と47節には次のように書かれています。


今日、希望もなく暗闇の中にいる人はいないでしょうか。平然を装いながらも、心は暗闇の中にいる方もいるかもしれません。

聖書のメッセージはとてもシンプルです。男性の後ろを歩いて出口に向かったおばあちゃんのように、イエスさまの言葉についていくならば、そこには希望があるのです。
自分の力では得ることのできない平安へと導いてくださるのです。

この世界は満員バス状態かもしれません。
不安の中に生きている人が沢山います。
この不安を、平安と喜びに変えるためにイエスさまはこの世界に飛び込んできてくださいました。このイエスさまを「知る」時に、私たちも、おばあちゃんが言ったように、「あ〜、心強い味方ができた」と安心することができるのです。

罪の世を照らす神の言葉 2

聖書を書いた人々に神様は霊感による言葉を与えられました。ですから、聖書に書かれていることは、長い年月を経て、何人もの人によって書かれたにもかかわらず、実際には神様のお考えや気持ちが現されているのです。

さらに聖書を眺めてみると、この聖書は「光」とか「灯」にたとえられています。どういう意味があるのでしょうか?

ある夏休みキャンプに行きました。美しい夕焼けの後に夜のとばりが降りてあたりは暗くなりました。山間部のキャンプ場までの道は外灯もなければ、町の灯りも届きません。木々の茂る林を通り抜けようと思いましたが、月明かりもこの林の中には届きません。まさに漆黒の闇に包まれました。手にした懐中電灯のスイッチを入れて足下を照らしました。明かりがないととても危なくて歩くことができません。足下は不安だし、どこへ向かっていけばよいか解りません。自分の勘に頼ることもできるかも知れませんが、これほど頼りないものもありません。躓いて怪我をしてしまったり、危険な場所に迷い込んだり、道に迷ったりするのが関の山です。

「光」とか「灯」に聖書がたとえられるのは、まさに人生における道を照らし、導くものに他ならないからです。

あなたは、これから先どんなことが起こるかお解りになるでしょうか?

だいたいの予想を立てることは、知識や経験によってある程度できるかも知れません。しかしそれは確実とは言い切ることができません。自分自身のこれから先のことを完全に知りうる人は一人もいないのです。

私たち人間は、明日どうなるのかも解らない者です。

人生とは、まさに真っ暗な森の中であかりも持たず手探りしながら歩いているようです。

しかも、その暗闇の向こうで、何者かが私たちを誘惑するためにじっとねらっています。

そんな私たちの人生の旅路の「光」となって足下を照らし、行く先を照らし、敵を発見し、道を見つけることができるように神様が私たちに与えてくださったのが「聖書」なのです。

「聖書」には私たちが正しく、有意義に生きてゆくための神様からの知恵がふんだんに盛り込まれています。

イエス・キリストという方の生き方や言葉、彼に従っていった人々の証言が私たち人間を人間としての誠の生き方へ私たちを導いてゆきます。(次号へ続く)