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はじめまして

はじめまして。このたび当地域の教会(セブンスデー・アドベンチスト小金井教会)に着任しました牧師の平賀和弘と申します。どうぞよろしくお願いいたします。これからどのような出会いが与えられ、すばらしい出来事が起こるのか、楽しみにしています。

さて、聖書には、神さまご自身が自己紹介された時の様子が記されています。神さまはモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト記3章14節)と語られました。この言葉は、不思議でありながら、深い慰めと希望に満ちています。

神さまがこのように自己紹介されたのは、モーセが使命に戸惑い、自分の弱さに目を向けていた時のことでした。内外の敵や大きな課題を前にして、おじけづいたモーセは、「わたしは何者でしょう」と神さまに訴えます。その言葉には、「自分にはできません」という思いが込められているようです。モーセは、神さまからゆだねられた働きを拒もうとするのです。


「わたしはある」とは、神さまが過去も現在も未来も、またどんな状況であっても変わることなく存在し、導いてくださっていることを示しています。今この瞬間にも、神さまは私たちと共におられます。モーセにとって必要なのは、「自分が何者なのか」ではなく、「神さまが共にいてくださる」という事実でした。

神さまは、遠くから見ているだけのお方ではありません。悩みや不安のただ中にいて、共に歩み、必要な力と導きを与えてくださいます。だからこそ私たちは、自分の力や状況ではなく、「わたしはある」と語ってくださる神さまに信頼して歩むことができます。

どのような日にも共にいて導いてくださるという神さまの約束に支えられながら、一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

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地域の皆さまの上に平安がありますようにお祈りしています。どうぞお気軽に教会ヘお立ち寄りください。

心強い味方

皆さんには、心強い味方はいますでしょうか。
数年前のバスの中。一歩も動けないほど混んでいました。私の前には、小柄なおばあちゃんが立っていました。
しばらくして、おばあちゃんはそわそわしながら近くの男性に伝えました。
「出口のドアの近くに行っておきたいので、通してくださいますか?」
すると男性は、おばあちゃんに優しく答えました。
「お気持ちはわかりますが、今は動けない状況なので・・・」
それを聞いた、おばあちやんは、がっかりした様子でその場に立ち続けました。


バスは進み、いよいよおばあちゃんが降りるバス停の近くに来ました。出口の方を見ながら不安そうにしているおばあちゃんに、男性は言いました。
「わたしもここで降ります。」
この言葉を聞いたおばあちゃんは安心した口調で言いました。
「あ〜、心強い味方ができた。」
おばあちゃんは、男性の後を歩きながらバスを降りていきました。

新約聖書ヨハネによる福音書12章46節と47節には次のように書かれています。


今日、希望もなく暗闇の中にいる人はいないでしょうか。平然を装いながらも、心は暗闇の中にいる方もいるかもしれません。

聖書のメッセージはとてもシンプルです。男性の後ろを歩いて出口に向かったおばあちゃんのように、イエスさまの言葉についていくならば、そこには希望があるのです。
自分の力では得ることのできない平安へと導いてくださるのです。

この世界は満員バス状態かもしれません。
不安の中に生きている人が沢山います。
この不安を、平安と喜びに変えるためにイエスさまはこの世界に飛び込んできてくださいました。このイエスさまを「知る」時に、私たちも、おばあちゃんが言ったように、「あ〜、心強い味方ができた」と安心することができるのです。

見捨てない

皆さんは、「見捨てる」という言葉を聞くと、どのような思いになりますか。
「見捨てた」、もしくは、「見捨てられた」。
どこか関係が切れてしまい、孤独を感じます。そして、心が寂しくなるような言葉ではないでしょうか。
聖書の神様は、私たちがどのような状況にあっても、決して見捨てない神様です。
旧約聖書詩編9編11節には、次のようなことが書いてあります。

新約聖書ルカによる福音書15章に、100匹の羊と羊飼いのたとえ話があります。
ある時、1匹の羊が迷子になってしまいます。100匹いるうちの1匹です。残り99匹います。
皆さんが羊飼いでしたら、どうしますか?
まだ、99匹いるから1匹くらい、いいやと思いますか?それとも、迷子になった1匹を見捨てずに探しに行きますか?
このたとえ話では、羊飼いは99匹を野原に残して、失った1匹を探しに行きます。
決して見捨てないのです。たとえ話の羊飼いとは、イエス・キリストをあらわしています。そして、迷子になっている1匹の羊は私たちなのです。


たとえ話の最後は、羊飼いが無事に迷子になった1匹を見つけ出し、喜びで終わります。イエスさまは、迷子になってしまい、不安の中に生きている一人一人を探しておられるのです。そして、決してあきらめず、見捨てることはないのです。

今日、試練の中、不安の中、または孤独を感じながら生活している方もいるかもしれません。
聖書の神様は、あなたを探し続けているのです。
羊飼いであるイエスさまに出会った時、この世が与えることのできない平安が私たちの心を満たすのです。ぜひ、見捨てない神様に心を向けてみませんか。

それでは、皆さんの心に平安がありますように。

終末に備える事の幸い

現在、私たちの住む地球は様々な問題を抱えているように思います。環境問題、道徳の低下、犯罪の低年齢化、健康問題、人口増加、飢餓や干ばつ、戦争、感染症の拡大など、そんな不安や恐怖から引き起こされる「嫌悪、差別、偏見」などが人々の心や家庭、社会に感染し、分断されていくことなど、数え上げればきりがありません。
誰もが皆、この世の終わりを心のどこかに意識しながら、あえて思い出さないようにして毎日の営みを続けているように見えないでしょうか。

さて、様々な不安の中、聖書が語る「終末論」は世の中で語られている「終末の不安」とはずいぶん違っています。むしろ、聖書は人類を苦しめてきた「罪の歴史の終末」という意味で、私たちに希望を与えようとしています。
その希望こそが、イエス・キリストが再びこの地上に来られ、私たちを迎えてくださるという「再臨」なのです。「キリストの再臨」は、罪の歴史が終わることと、そこから新しい歴史が始まることを私たちに伝えています。

実は、「再臨」について、聖書全体では千五百回以上(新約聖書に三百回以上)述べられていますが、この出来事が、あなたにとって幸いである事を願っております。
宗教改革者マルティン・ルターは、終末に望む思いを、「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、りんごの苗を植える」という言葉に表しました。
この言葉には、私たちがなすところの日々の備えの大切さが示されています。ルターは、過ごす一日一日が、自分にとってかけがえのない時であることを知っていました。そして常に彼の生活そのものが天国への備えであったのです。今日も明日も変わりなく「備える」事を当たり前に生きるのだ。そして救い主を日々待っていると言うのです。

キリストをお迎えする準備と経験は決して形ばかりを整えようとすることでもなければ、感情的な興奮でもありません。実に、日々の生活の中にそれはあり、私たちが営む生活そのものがキリスト再臨の備えでありたいと思います。
私たちは、やがて罪の歴史の終わりを迎えます。神様はその時が近いことを聖書を通して教えて下さっているのです。

イエス・キリストの生涯6 ~十字架の救い「悔い改め」~

今年は新型コロナウイルスの大感染で、世界中が不安の中に閉じ込められています。不安は私たちの心を狭くし余裕をなくします。すると自分中心になってしまい、他の人のことを思いやることに疎くなってしまいます。こんな時だからこそ、お互いが思いやり協力してゆくことが大事です。

十字架

イエスの十字架の両側に二人の強盗も十字架にかけられていました。
一人は、隣のイエスを罵り続け、もう一人はそれをたしなめていました。

ののしる強盗は自分のことだけを思い、嘆き、悔やみ、怒り、その矛先をイエスに向けています。
たしなめる強盗は自分のことを客観的に見て、嘆き、苦しみ、悔やみ、悲しんでいます。
そして、救いに値しない自分なのだけれど、その存在をあなただけでもいいから覚えていていただけると幸いですと、悔い改めたい意思をイエスに伝えます。

実は、イエス・キリストはこの強盗の罪を悔ゆる心と思いやりに触れて慰められたのでした。
また、イエスは十字架の上から御自分を十字架にかけた人々のためにも祈られました。

そして、

と大声でさけび、十字架の上で息を引き取られました。それは壮絶な死でありましたが、同時に大いなる愛の実現ともなりました。この十字架の死こそが、まさに私たちが負わなければならなかった「罪の結果である死」の身代わりになるのです。(次号に続く)