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終末に備える事の幸い

現在、私たちの住む地球は様々な問題を抱えているように思います。環境問題、道徳の低下、犯罪の低年齢化、健康問題、人口増加、飢餓や干ばつ、戦争、感染症の拡大など、そんな不安や恐怖から引き起こされる「嫌悪、差別、偏見」などが人々の心や家庭、社会に感染し、分断されていくことなど、数え上げればきりがありません。
誰もが皆、この世の終わりを心のどこかに意識しながら、あえて思い出さないようにして毎日の営みを続けているように見えないでしょうか。

さて、様々な不安の中、聖書が語る「終末論」は世の中で語られている「終末の不安」とはずいぶん違っています。むしろ、聖書は人類を苦しめてきた「罪の歴史の終末」という意味で、私たちに希望を与えようとしています。
その希望こそが、イエス・キリストが再びこの地上に来られ、私たちを迎えてくださるという「再臨」なのです。「キリストの再臨」は、罪の歴史が終わることと、そこから新しい歴史が始まることを私たちに伝えています。

実は、「再臨」について、聖書全体では千五百回以上(新約聖書に三百回以上)述べられていますが、この出来事が、あなたにとって幸いである事を願っております。
宗教改革者マルティン・ルターは、終末に望む思いを、「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、りんごの苗を植える」という言葉に表しました。
この言葉には、私たちがなすところの日々の備えの大切さが示されています。ルターは、過ごす一日一日が、自分にとってかけがえのない時であることを知っていました。そして常に彼の生活そのものが天国への備えであったのです。今日も明日も変わりなく「備える」事を当たり前に生きるのだ。そして救い主を日々待っていると言うのです。

キリストをお迎えする準備と経験は決して形ばかりを整えようとすることでもなければ、感情的な興奮でもありません。実に、日々の生活の中にそれはあり、私たちが営む生活そのものがキリスト再臨の備えでありたいと思います。
私たちは、やがて罪の歴史の終わりを迎えます。神様はその時が近いことを聖書を通して教えて下さっているのです。

備えして待て

終末に望む積極的な思いを、宗教改革者マルティン・ルターは、「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、林檎の苗を植える」という言葉に表しました。

この言葉には、私たちがなすところの日々の備えの大切さが語られています。与えられている今というこの時が、私たち自身にとっての良きチャンスです。

ルターは自らの生活、そして過ごす一日一日が、自分にとってかけがえのない時であることを知っていました。そして常に彼の生活そのものがイエス・キリストの再臨への備えでありました。

これは、常にキリストの再臨を喜びの内に待ち望む気持ちを持ち、日々の生活の中で神様と共に悔いのないように歩み、いつキリストが来られてもお迎えできるように備えして待っているという気持ちが表されています。

キリストをお迎えする準備と経験は決して形ばかりを整えようとすることでもなければ、感情的な興奮でもありません。実に、日々の生活の中にそれはあり、私たちが営む生活そのものがキリスト再臨の日々の備えでありたいと思います。

つまり、祈る事、礼拝を献げる事、愛する事、奉仕する事等が、特別ではなく当然の事として生活の一部になっているような感じだと思います。ですから、褒められなくてもいいし、特別に認められなくてもいいのです。当たり前の事だから。

私たちが心に留めておきたいのは、イエス・キリストに似た者となりたいという思いではないでしょうか。その品性に触れたとき(聖書を通して知ったとき)、私たちは救い主であり、模範であり、理想である存在にあこがれを抱くことができます。求めれば与えられます。それは聖霊なる神様がいつも用意して下さっているのです。次の聖書の言葉には希望が込められています。

ですから私たちの生活にこの聖書の言葉を実現していきましょう。

キリストが再びこの地上に来られ、私たちを迎えてくださる「再臨」が、私にとって幸いである事を願い祈りましょう。

神様を信じ、神様の愛に望みを抱く私たちにとって、イエス・キリストの再臨は幸いな時、喜びの日です。

終末を思いつつ

近年最も印象強く、最も心痛めた出来事は、2011年3月11日に起こった東日本大震災による津波の脅威でしょう。関東から東北地区沿岸を襲った大津波は、まさに想定外の思いもよらぬ事でした。

死者19,533名、行方不明者2,585名、負傷者6,230名(2017年3月8日現在、消防庁災害対策本部)、多くの農地が流失や冠水の被害、広い範囲で液状化現象が発生しました。さらに福島第一原子力発電所の事故が伴い、6年経った現在においても困難な状況の中にいる人がたくさんいます。

2011年5月21日〜29日、私はADRA Japan(途上国や災害被災地において開発支援や緊急支援活動を行う国際NGO)の災害復興支援のボランティアに参加させていただきました。その時、目を覆いたくなるような被災地の現状を目の当たりにし呆然と立ちすくんでしまいました。これが人類の罪による悲しみの現実、まさに終末のしるしなのだろうか、そんな思いで胸が痛くなりました。

現在、私たちの住む地球は様々な問題を抱えているように思います。環境問題、道徳の低下、犯罪の増加と低年齢化、健康問題、人口増加、飢餓や干ばつ、自然災害、戦争など、数え上げればきりがないほどの問題があります。子どもたちも、将来に対する夢や希望を失いかけており、これからの世界は、はたして存在し続ける事が出来るのだろうかと不安が山積みです。

誰もが皆、この世の終わりを心のどこかに意識しながら、あえて思い出さないようにして毎日の営みを続けているようにも見えないでしょうか。

実は、これらの事柄はおよそ2000年前からすでに、イエス・キリストによって預言されていたのです。興味ある方は新約聖書のマタイによる福音書24章をご覧ください。

しかし、聖書が語る「終末論」は、世の中で語られている「終末の不安」とはずいぶん違っています。むしろ、聖書は人類を苦しめてきた「罪の歴史の終末」という意味で、私たちに希望を与え、さらに、そこから新しい歴史が始まることを私たちに伝えています。

今、私たちが見ている事柄は、あくまでも終末のしるしです。そんな中、改めて希望的展望を抱きたいものです。良き備えの日々を送ってゆきましょう。

神様の豊かな愛と慈しみが皆様と共にありますように、心よりお祈りいたします。