「久保 司 牧師」カテゴリーアーカイブ

小金井の信徒への手紙 ~プロセス~

聖書の御言葉は私たちの生き方を変える力があります。
私たちは自分の人生を見つめ直し、生き甲斐のある幸福な日々を過ごしていきたいと願っています。そのために神様の救いのプロセスを確認しておく事は大切です。
それは聖書に示される神様の恵みによって、実際の行い(生活)はその信仰に伴って現れてきます。

・ 罪に気づく ▼聖書を素直に読んでいくと自分自身の罪に気づかされます。

・ 罪を認める ▼気づいた罪を認めるのには勇気がいり、心も痛みます。しかしそれを認めることができなければ罪はそのまま私たちの心に残ってしまいます。

・ 罪を悲しむ ▼罪を認めると自分自身の現状に悲しみや情けなさを感じてしまいます。それは時に憤りとなることもあります。もちろん自分に対しての憤りです。

・ 無力さを知る ▼罪に対して向かい合うと自分の力無さに気づきます。どうしたら良いかと思案すると、聖書は救い王を指し示します。

・ 救い王に委ねる ▼私たちは自分の全てを委ねることが苦手です。切羽詰まった状況に置かれなければ委ねられないのが現実です。神様にまったく明け渡すと救い王に対する深い信頼と愛が生まれてきます。

・ 悔い改める ▼イエス様との信頼関係、深い愛の結びつきを実感することにより私たちは素直に自分の罪を告白することができ、純粋な悔い改めへと導かれます。この悔い改めこそが救いの重要なポイントです。

・ 救い王を見つめる ▼立ち止まってイエス様を見る事が必要です。見ることによって(心の目で)心に変化がもたらされます。聖書を通して様々な角度からキリストを見つめることができます。

・ 救い王に学ぶ  ▼イエス様の素晴らしさに触れると、イエス様の事を学びたくなります。すると多くのことに気づき、更にイエス様を知ることになります。

・ 救い王に似た者 ▼イエス様を見つめ、イエス様を学ぶほど、多くの影響を受けます。必然的にイエス様の品性に近づいてゆくでしょう。

人は罪深く弱い存在です。悔い改めて神様の赦しを経験しても、失敗を繰り返してしまいます。しかし神様は私たちの弱さをご存じで、罪に対して無力であることを承知した上で、罪の赦しを与えて下さっています。それだけ私たちの罪が根深いということ以上に、神様の愛が更に深いことを示しています。神様は忍耐をもって導いて下さり、私たちを限界まで諦めることはありません。やがてイエス様が再臨なさるその時のために備えて下さっています。
7年間、皆様と共に歩むことができて感謝です。主にあって紡がれた絆が天の御国に至るまで続きますように。

※久保司牧師は4月1日よりSDA東京中央教会へ転任されます。小金井教会は4月1日付で島田隼人牧師が着任します。

年の始めの例(ためし)とて

「と~しのは~じめのためしとて♪」(1年の初めの恒例行事という意味)

暦が12月31日から1月1日になった途端「あけましておめでとうございます」という挨拶が交わされて、すべてが新しくなったとなります。

賀正

こうした「時」の区切りのおかげで、生活にも区切りをつけ、大掃除して身の回りの整理整頓をしたり、心の切りかえをするのでしょう。そういうことからでも「お正月」を私たちは大切な「年の始め」にしたいものです。

聖書の中に「これを年の正月としなさい」(旧約聖書出エジブト12章2節)と、神様がイスラエルの民に言われたという記事があります。これが告げられた時季は、太陽暦から言いますと4月頃だったようです。

この出来事はイスラエルの歴史にとって、劇的な転機の時でした。それは400年以上もの年月をエジブトの奴隷であったイスラエル民族が、預言者モーセを通して働かれた神様の導きによって「解放」と「脱出」が実現しました。イスラエルの民にとっては「救済」であり「新生」するという意味で、「これを年の正月としなさい」と言われた神様の言葉は重要だったわけです。

以来、イスラエルの民は民事暦と宗教暦との二つの暦を用いるようになり、彼らは、お正月から十日間、神様の前に自分の生活と振る舞い、思いまでも吟味しました。そして、自らの罪に気付いたら、神様の赦しを求め、心からの悔い改めをしていったのです。

現代の私たちは二つの暦を持つ必要はありませんが、あの時が私の人生にとって「お正月」だったという、そういう人生の転機が必要なのではないでしょうか。そうでなければ、暦の上で年が変わっても、実質的には何も変わっていかないからです。

心機一転、新しい年を迎えるにあたり自らを顧み、スタートしたいと思います。

新年のあいさつ

クリスマスツリー

クリスマスは、心と心が愛によって触れ合うとき、お互いを思いやるときです。
しかし、人生という旅路には様々な困難があり、それを誰かに代わってもらうことはできないし、自分が誰かの代わりになることもできません。
自分の人生は自分で歩んでゆかなければならないのです。だからと言って、他人の事はおかまいなく、自分の事だけを考えれば良いという訳でもありません。それは無味乾燥で寒々とした状況しか生み出せないからです。
ではどうすれば良いのか、それは支え合ってゆく事だと思います。

クリスマスイブの前日、街角でクリスマスツリー用の木が売られていました。夕方になり客足も途絶え、店主があと30分くらいで店じまいをしようと思っていた時、貧しそうな若い夫婦がやってきました。2ダースほど残っていたでしょうか、二人は売れ残ったツリーの木を一本一本慎重に眺め、まともな部類の木を手に取りました。しかし、値段を聞くと元に戻し、残念そうに帰って行きました。
後片付けをしていると、再びあの若い夫婦がやってきました。まともそうな木を買うことにしたのかなと思ったら、一番惨めな木の所に歩いて行って値段を聞きました。それは片方の枝振りは申し分なかったのですが、反対側の枝は半分以上無くなっていました。
店主は「1本200円でいいよ。でもどんなに飾り付けをしても見栄えは良くならないよ。」と忠告しました。その夫婦はさらにもう1本ヽ同じような木を選んだのでサービスしてやり、2本300円で喜んで家に帰って行きました。
クリスマスイブの夜、店主はあの夫婦の住むアパートの前を通りました。ふと窓ごしに部屋を見ると、今まで見た事がないほど立派なクリスマスツリーが飾られていたので、大変驚き二人の部屋をノックしました。
彼らは、あの惨めな2本の木の幹を、枝振りの悪い方が内側になるようにしてくっつけ、それを針金で固定していました。

彼らが買わなければ、まちがいなく捨てられてしまったであろう2本のもみの木。欠点があっても、見栄えが悪くても、両方の良いところを合わせれば素晴らしいものになるのですね。人は皆、不完全で頼りないもの。支え合ってゆく事が大事なのです。
しかし人間同士が支え合うにも限界がある事があります。どうすればいいのでしょう?
人となって地上に来られた救い主の事を忘れてはいけません。イエス・キリストは自ら、罪の影響を受けてしまった人間と同じ有様になられました。そして、私たちを招き「私につながっていなさい」(ヨハネによる福音書15章4節)とおっしゃいました。私たちがイエス・キリストとつながっている事によって、神様は私たちを義なる者、清い者として認め、受け入れ、祝福をしてくださるのです。

愛を紡ぐ

紡ぐとは、撚り合わせること。「結ぶ」よりも強い絆を感じます。
神様から私たちに与えられた人生、そこで様々な人々との出会いを経験します。その影響の中で学び、考え、様々なものを身につけてゆきます。
それは私という一本の細い糸に色々な経験の糸をよりあわせるようなものではないでしょうか。
そんな私たちの人生に、更にキリストという丈夫な糸を紡いだときどんなことが起こるのでしょう。あなたはきっと、驚くばかりの可能性と希望が広がってゆくことを経験することでしょう。

神様は、「全知の神」であり、私たちが罪深い存在である事を重々ご承知です。
その上で、神様の無条件の愛は、人間が神様を信じていようがいまいが、愛していようがなかろうが、一方的に常に私たちのことを想い続けて下さっています。
しかし決して満足されているわけではありません。
そうです。神様は「片思い」であることが多いのです。

通常「片思い」とは相手への思いがつのり、愛する感情がどんどん大きくなり、どんどん「理想化」し、素晴らしい人に思えてくるものです。
しかし、相手が、自分の理想とは違うと気付いたら幻滅してしまい、思いは冷めてしまいます。
ところが神様の場合は「無限に理想化」することが可能です。なぜなら神様は私たちが考えられる最高の理想の、更にその上に存在するからです。それゆえに「神様への思い」は、無限に高めて行くことが出来るのです。
これは「最高の理想をさらに超えるもの」に対する永遠の思いです。この思いは恋愛の片思いのように幻滅することがありません。
神様を愛すれば愛するほど、神様を求めれば求めるほど、神様を理想化すればするほど、神様への思いはつのり、神様への愛は無限に大きくなっていくのです。

「神は天にも地にも、数えきれぬほどの愛のしるしをまき散らして、私どもの心をご自分に結びつけたまいました。自然のいろいろのもの、または人の心が感じとることのできる深い優しい地上のきずなによって、神は私どもに神ご自身を示そうとなさいました」。
(キリストヘの道「神の愛」より)

愛されている

幼稚園に通う2人の女の子が川で遊んでいる時、ダンボール箱が流れてきました。箱を開けてみると小さな仔犬が入っていました。

箱から出してあげると、その仔犬は同じところをクルクルと回ってばかりでした。この仔犬の目が見えなかったのです。

女の子たちは家に連れて帰りましたが、お母さんから「うちのマンションでは飼えないわよ。戻してきなさい。」と言われてしまいました。

仕方がないので仔犬を連れて川に来たのですが、仔犬が「クンクン・・・」と悲しそうなので、連れ帰って内緒でマンションの駐輪場で飼うことにしました。

ある日、帰ってみると繋いでいた紐が首に絡まって苦しそうにしていました。そこで管理人のおじさんのところに行って相談しました。

おじさんは話を聞いてなんとかしてあげたいと思い、マンションの人たちに集まってもらいました。

「この仔犬は目が見えないので、捨てたらすぐに死んでしまいます。子供たちと責任をもって飼うので、マンションの隅に犬小屋を置いて飼わせてほしい。」と訴えました。

しかし、集まった住民たちは「規則は規則だから」となかなか認めてくれません。

その時、女の子たちが「どうして助けちゃいけないの?盲導犬は目の見えない人を助けてくれるでしょ・・・それなのに人がどうして目の見えない犬を助けちゃいけないの・・・」と泣きながら叫びました。

その質問に答えられる人は誰もいませんでした。

一人の人が「わかりました」と言うと、賛成の拍手が湧き上がりました。

神様は私たちを決して見捨てることなく、諦めることなく愛し続けてくださっています。全力を傾け、罪に陥った人類を助け出そうと命がけで働きかけてくださっています。

そして、私たちの心に神様は「愛せる」ことを備えてくださいました。

「愛する」とは、愛する者に対して与える事も、犠牲を払うことも、時間も、そして命をも惜しみません。自分の事よりは相手のことを考えます。

神様は常に「愛」です。その真実を受けとめつつ、私たちは自らの意志で神様を信じ、救い主の差し出される御手に、自らの手を伸ばし、しっかり握りしめていただく事を望んでゆきたいと思います。

親と子

「嗣業」という言葉には「受け継ぐ」という意味があります。つまり、子どもは神様から受け継いだ存在ということです。そこには「責任」が伴います。
長男が産まれて間もない頃、「親業」の講座を受ける機会が与えられました。初めての子ども、そして、父親としてどう子どもと接したら良いかと考えていたので迷うことなく受けることにしました。
親子の間の問題解決のための基本的な事を分かち合いたいと思います。それは「親業の三つの柱」と呼ばれています。

1.聞くこと

子どもが心を開いて本当の気持ちを親に話せるように、何か問題を持って悩んでいるときに、自分で解決できるように手助けをする。

「傾聴」はカウンセリングの基本でもあります。人間はなかなか素直に自分の気持ちを表に出さないものです。子どもも例外ではありません。また、子どもはいろいろな危険信号を出しているものです。
子どもの心を開かせ、本当の気持ちを吐き出させることがとても大切になります。そうした接し方を親業訓練では「能動的な聞き方」と呼んでいます。親も子も、ありのままの自然な話し合いが行われるならば、しっかりした心の架け橋を築くことができると思います。

2.話すこと

親が子どもに自分の気持ちや考え方を率直に伝えることです。

親は子どもの気持ちを聞くだけでなく、子どもに伝えたいことをたくさん持っています。しかし、一方的に押しつけてしまっては心の扉を閉じてしまいます。
子どももひとりの人間として自尊心を持っています。そんなことが続けば愛情から生まれた「思い」を子どもは理解しようとしなくなるでしょう。
そこで親が自分の気持ちを率直に伝え、しかも子どもが心を開いて聞くような接し方が大切になります。そうした方法を、親業訓練では「私メッセージ」を送ると呼んでいます。
私たちは伝える言葉の主語に「私は(が)」をつけた言葉をつける事が多く、実は、案外「あなたは(が)」という主語がつけられた言葉を伝えている事が多いのです。

3.対立を解く

子どもの欲求と親の気持ちが折り合わないような場合、どのように解決するか。

子どもはそれなりに独立した欲求をもっています。そこで、親がこうあるべきだと思うこと、子どもがこうしたいと考えることが対立することがよくあります。
こうした場合、親が一方的に意見を押しつけるのではなく、また子どもの欲求にいつも応じてしまうのでもなく、対立している問題を親も子も納得できるように解決していかなければなりません。こうした問題解決の方法を「勝負なし法」と呼んでいます。
どちらも勝つことなく、一緒に問題を解決しようとする姿勢が大事です。

より良い親子関係、人間関係を築いてゆきましょう。

「驚くばかりの恵み」Amazing Grace

世界的に有名な「アメイジング・グレイス」の作詞者ジョン・ニュ―トンは、黒人奴隷を輸送する「奴隷貿易」に携わり富を得ていました。拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、船内の衛生環境は劣悪でした。このため多くの者が輸送先に到着する前に死亡したといわれています。そんな彼に転機が訪れたのが1748年5月10日、22歳の時でした。

船が嵐に遭い浸水、転覆の危険に陥ったのです。彼は必死に神様に祈りました。彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったそうです。

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すると流出していた荷物が船底に空いた穴を塞いで浸水が弱まり、運よく難を逃れたのでした。ニュートンはこの日を精神的転機とし、心から悔い改め、聖書や宗教的書物を読むようになりました。

1755年、彼は船を降り神学を学び牧師となります。そして1772年「アメイジング・グレイス」が作詞されたのです。歌詞中では、黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにも拘らず赦しを与えて下さった神様の愛に対する感謝が歌われています。

私たちもアダムから始まった罪と自らの罪によって神様の栄光を受けられなくなってしまいました。しかし、神様の一方的な恵みにより、死から命へと引き上げていただきました。

神様は、罪によって死の定めを負ってしまった私たちをキリストと共に生かして下さいました。私たちが救われたのは、ただ神様の恵みによるのです。

恵みとは、賜られるに値しない罪人である私たちが、神様の愛によって賜った賜物の事です。 一方的な慈愛。憐みにより賜ったのです。これは救いの奇跡であり、永遠に変わることがない恵みです。

神様にとって、私たちはかけがえのない大切な存在なのです。それは御自身の命に代えても良いと思うほどです。

神様は、自分の罪の故に罰せられ、滅ぼされても仕方なかった私たちに救いの道を開いて下さいました。私たちが救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのであり、その信仰すら私たち自身から出たものではなく、神様の賜物なのです。

ですから、神様にいつも感謝しながら生きるべきです。神様の私たちに対する一方的な愛によって、生かし、祝福を与えて下さった恵みを心から感謝しながら生きるのです。

価値あるものを見出す喜び

人の価値観はそれぞれ違いますが、その価値観を尊重することも大切です。

それにしても、価値あるものだと思っていたものが、ある日その価値が薄れてしまうことがあります。それは、もっと価値あるものを見つけた時です。

宝物

紀元1世紀、イエス・キリストがおられた頃、死海の北西部に位置する古都エリコに、ザアカイという男がいました。彼はローマ政府から税金の取り立てを委託された徴税人の頭でした。当時、徴税人は売国奴として軽蔑されていました。それゆえ自分の立場を守るために金儲けに価値を見つけ、そのためなら不正も行っていたのです。当然、多くの人々から嫌われて、寂しく空虚な人生を送っていました。

そのザアカイに人生の転機が訪れます。それがイエス様との出会いでした。ある日、エリコにイエス様が来られるという知らせを耳にした彼は、興味半分に往来に出ました。彼は背が低いため人垣でイエス様と弟子たち一行を見ることができませんでした。そこで彼は、近くのいちじく桑の木に登ります。

イエス様とザアカイの出会いはザアカイの必死の努力が実を結んだものではありませんでした。それはイエス様が「上を見上げる」ことによって起こったと聖書は記しています。

私たちの方にイエスが目を向けてくださったからこそ、私たちと神様との関係が回復され、救いを受けることができるのです。

その日、イエス様はザアカイの家に泊まり交わることによって、彼にもっと大切で尊い価値観を示されたのです。神様を愛し、その神様が愛している人々を愛することがいかに幸せなのかを知ったのです。彼は、真心から変わりたいと望み、今までの生き方を悔い改めました。

私たちも改めてイエス様と出会い、信じる者とされ、神様に用いられることを確認したいと思います。

「仮面ライダーカード」1971年から73年1月までカルビー製薬が販売していた「仮面ライダースナック」(20円)のおまけ。ちなみに写真のカードはメルカリで現在26.000円で出品されている。

エリコに残るザアカイが登ったとされるイチジク桑の木