「久保 司 牧師」カテゴリーアーカイブ

シェアリングネイチャー

私がその活動を見つけたのは、1991年の春でした。「BE-PAL」というアウトドア雑誌に紹介されていた日本シェアリングネイチャー協会の「ネイチャーゲーム」に目を引かれました。

それは、1979年、アメリカのナチュラリス卜、ジョセフ・コーネル氏によって考案された、人間の五感を通して「自然」を直接体験するプログラムで、自然を興味深く楽しく体感するための「自然体験学習」です。このプログラムに興味を覚えたのは、当時からパスファインダー・クラブの指導している中で、何か有益なプログラムはないだろうかと模索しているところだったからです。

パスファインダー・クラブとは、自然を大切にし、家族の絆を深め、神様と人々に愛され喜ばれる人間として成長する事を目指す活動ですので、「ネイチャーゲーム」は、その目的に適切なプログラムだったというわけです。
聖書には

とあり、人類を含め森羅万象の全ては、創造主なる神様によって造られたと書かれています。

先述いたしました、ジョセフ・コーネル氏が初めて来日されたとき、雨の少ないカリフォルニア・アナンダ村に住んでいる彼が、土砂降りの雨の中を喜んで歩き回ったというエピソードがあります。雨の音・匂い・感触・形や色(透明感)・味などを、様々な発見ができたことが嬉しかったのです。

普通私たちは天気が悪いと憂うつになりがちですが、雨の大切さ、美しさ、不思議さなどに気づくとき、その気持ちは変化し憂うつだと思っていたものが愛おしく感じる事ができます。

心が疲れ弱ってしまうと私たちの視線は重力に絶えられず下を見がちです。不安、悲しみ、失望、嘆きなどを覚えたとき、意識して視線を上に向けると気持ちに変化が生まれます。

普段見慣れた風景とは違った風景が目に飛び込んでくるものです。日本は四季の変化の中で様々な自然を体感できる環境に恵まれています。

エレン・G・ホワイトは、「自然と聖書は神の愛をあかししています。」(キリストヘの道1P)と述べています。コロナ禍の中ですが、身近にある神様の愛を見つけに出かけられたらいかがでしょう。

体感時間 ~大人と子どもの感じ方~

「初め」という言葉は「時間」の始まりを意味しています。「時間」は神様が定めて下さいました。

子どもの「体感時間」と大人の「体感時間」には大きな差があることをご存じでしょうか。

19世紀のフランスの哲学者ポール・ジャネーが考案し、甥の心理学者であるピエール・ジャネーが著述した「ジャネーの法則」によると、「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する」と言うのです。

ジャネーの法則
出典:REPOLOG – ジャネーの法則を使って”人生を積分”してみた

1歳の赤ちゃんにとって1年を人生の全ての長さとすると、40歳の人にとっては人生の40分の1の長さに感じているということになり、例えば、10歳の子どもを基本に考えると、40歳くらい(両親の平均年齢)で4倍、60歳だと6倍のスピード感で時間が進んでいると言えるわけです。

逆の感覚で言うと10歳の子どもは40歳の人の4倍の時間を1年で過ごすようなものです(4倍の長さを感じている)。

何が言いたいかというと、例えばコロナ禍において1年間の自粛を余儀なくされるとすると10歳の子どもにとっては40歳の大人の4年分、50歳の5年分、60歳の6年分…に相当すると言うことです。もちろん年齢が下がるほど体感時間は長く感じている事になりますね。

昨年末の国立成育医療センターの調査によると、小学4~6年生の15%、中学生の24%、高校生の30%に「中程度以上のうつ症状」があったことがわかったそうです。

VVVladimirVVVによるPixabayからの画像

体感時間からすると大人の1年分のストレスが子どもたちにとってどれだけ深刻な事態であるかを知ることができます。

家庭で色々な「おうち時間」の工夫があったとしてもこのような結果が出ると言うことは真剣に今の状況を判断することが重要だと思います。

身近な事柄についても、例えば「ちょっと待っててね」と30歳のお母さんが5歳のお子さんに10分間待たせるとすると、子どもにとっては6倍の「体感時間」、つまり1時間の感覚です。待ち合わせをして1時間待たされる事を考えるといかがでしょう?

もちろん個人差もありますし、環境や状況もあると思います。しかし子どもの時間は大人に比べると大変貴重である事をおわかりになっていただけると思います。与えられた「時間」を大切にしたいです。

聖書に示されたお正月

明けましておめでとうございます。
昨年は新型コロナウイルスの感染拡大によって不安な一年を過ごしました。
今年はどんな年になるのでしょう。神様の導きと祝福がより多く与えられますことをお祈りいたします。

新年

さて、お正月について聖書はどのように捉えているか少しお話ししたいと思います。
実はお正月については旧約聖書にあります。
ただ、日本のお正月とは違い、秋なのです。

旧約聖書によりますと、正月は第七の月の一日になります。今のカレンダーで見ますと、その時は収穫が済んだ秋の九月の下旬か十月の上旬でした。
そして、その頃に過越の祭り(贖罪日)も行われました(出エジプト記12章より)。
今から三千年程前より、全てのイスラエル人は断食して、エルサレムの神殿で色々な儀式がなされていました。その儀式の目的は人々が犯した罪を清める事です。主に、生け贄(動物や収穫物)を捧げる事によって罪が贖われ、神様の赦しを受け、人々の間には和解が与えられました。

正月から贖罪日までの十日間、人々は神様の前に自分の生活、心、思いまでも吟味しました。自分が被告人のように全知全能の神様の裁判に出頭するような経験でした。そして、罪に気付いたら心からの悔い改めが必要となりました。「正月」は一年中最も厳粛な時だったのです。
ですから現在においても、お正月に神様に礼拝を捧げることは、年毎に新たな気持ちで神様と向き合うという意味で大切なのかもしれませんね。
神様は、節目節目に自らを見つめ直し、悔い改めて神様に立ち返る事を求めておられるのではないでしょうか。
どうか今年が良い年として導かれますように。

子羊

蛇足ですが・・・
お正月の「おとそ」。これを漢字で書くと「お屠蘇」です。屠とは屠る(ほふる)殺すこと、蘇は蘇る(よみがえる)ことで、この二つを合わせて「屠蘇」となるわけです。これもまた、お正月にちなんで、聖書の過越の祭りを思わせますね。

祈りは魂の呼吸

「祈り」は信仰者にとってとても大切な行為です。
それは、天地万物の創造主なる神様とのコミュニケーションだからです。
私たち同士の人間関係においてもコミュニケーションはとても大切な行為であるように、「祈る」事は神様と人類にとっても重要なのです。

エレン・ホワイトは「祈りは魂の呼吸である。霊的力の秘訣である。その代わりとなるいかなる恵みの手段もなく、魂の健康を保つ他のいかなる方法もないのである。」と語ります。

私たちの呼吸が止まってしまったら、酸素は脳に送られず、やがて細胞は死んでしまいます。完全に呼吸が止まってしまい4分経過しますと50%は助からないと言われています。二人に一人です。5分経ちますと75%、8分経つと私たちの大脳は復活が不可能になってしまいます。人間は、まったく弱き存在なんですね。

では、魂の呼吸である祈りがストップしてしまうとどうなるのでしょうか?

神様からの必要な力が与えられません。ある程度は、この世における道徳や倫理などによって守られるかもしれません。しかし、人の力には限界があります。それは意志の力も同様です。確実に、生命の源である神から遠ざかってゆきます。
すると心には、純粋で真実な、平安、喜び、感動などが徐々に失われてゆきます。そして、息苦しいストレスが忍び込んでくるのです。神様からの平安がなくなった者は、その心ばかりでなく肉体をも危険にさらすのです。
いかがでしょう? 私たちは「祈り」をおろそかにしてはいないでしょうか?

祈りには神様の力が備わるのです。「祈り」は、全ての出発点であります。あなたが、「祈り」の体験者であってほしいと、神様は願われているのです。
エレン・ホワイトは「祈りは、全能の神の無限の資財がたくわえてある天の倉を開く、信仰の手に握られた鍵であります。」と語っています。
「祈り」は神様との素晴らしいコミュニケーションであり、恵みと力が備えられている事を心にお覚え下さい。

終末に備える事の幸い

現在、私たちの住む地球は様々な問題を抱えているように思います。環境問題、道徳の低下、犯罪の低年齢化、健康問題、人口増加、飢餓や干ばつ、戦争、感染症の拡大など、そんな不安や恐怖から引き起こされる「嫌悪、差別、偏見」などが人々の心や家庭、社会に感染し、分断されていくことなど、数え上げればきりがありません。
誰もが皆、この世の終わりを心のどこかに意識しながら、あえて思い出さないようにして毎日の営みを続けているように見えないでしょうか。

さて、様々な不安の中、聖書が語る「終末論」は世の中で語られている「終末の不安」とはずいぶん違っています。むしろ、聖書は人類を苦しめてきた「罪の歴史の終末」という意味で、私たちに希望を与えようとしています。
その希望こそが、イエス・キリストが再びこの地上に来られ、私たちを迎えてくださるという「再臨」なのです。「キリストの再臨」は、罪の歴史が終わることと、そこから新しい歴史が始まることを私たちに伝えています。

実は、「再臨」について、聖書全体では千五百回以上(新約聖書に三百回以上)述べられていますが、この出来事が、あなたにとって幸いである事を願っております。
宗教改革者マルティン・ルターは、終末に望む思いを、「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、りんごの苗を植える」という言葉に表しました。
この言葉には、私たちがなすところの日々の備えの大切さが示されています。ルターは、過ごす一日一日が、自分にとってかけがえのない時であることを知っていました。そして常に彼の生活そのものが天国への備えであったのです。今日も明日も変わりなく「備える」事を当たり前に生きるのだ。そして救い主を日々待っていると言うのです。

キリストをお迎えする準備と経験は決して形ばかりを整えようとすることでもなければ、感情的な興奮でもありません。実に、日々の生活の中にそれはあり、私たちが営む生活そのものがキリスト再臨の備えでありたいと思います。
私たちは、やがて罪の歴史の終わりを迎えます。神様はその時が近いことを聖書を通して教えて下さっているのです。

イエス・キリストの生涯8 ~十字架の希望「再臨」~

イエス様の地上における生涯について、今回最後の希望についてお伝えしましょう。
天国ではイエス様が罪に勝利し帰ってくるのを待っていました。おびただしい数の天使たちが、栄光の王として罪に勝利されたイエス様を天まで護衛するために地上にやってきました。
イエス様は、弟子たちを祝福されると、彼らから離れて天へ上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなりました。その姿をじっと追い続ける弟子たちの傍らに天使が立ち、彼らに語りかけました。
新約聖書使徒言行録1章11節にその時の言葉が書かれています。

祈り

イエス様は、私たちを常に愛し、導いてくださいます。
私たちが人生の旅路を歩むとき、その道に迷うことがないように、多くの模範を残していってくださいました。
家庭の中で・・・ 子どもたちに・・・ そして、全ての人をイエス様は、真の平和へと導いてゆきたいと望んでおられます。
イエス・キリストは羊飼い、私たちはその牧の羊とたとえられています。道に迷い、さまよう私たちをイエス様は捜し求め、手を差しのべてくださるのです。
私たちが、その差し出された手を喜んで求め掴むか、拒むかは私たちに委ねられています。
あなたはどうされますか?
イエス様は、今もなお私たちのために働きかけてくださっています。
弱いものに力を、病をもつものに癒しを、迷うものに導きを・・・
私たちの人生における最高のアドバイザー。それが聖書に紹介されているイエス・キリストなのです。
私たちの悩み、悲しみ、苦しみの全ての解決方法をイエス・キリストはご存じです。

イエス・キリストは今、あなたの心の扉をたたいています。
あなたがその扉を開いてくれるのを待っておられるのです。

イエス・キリストの生涯7 ~十字架の救い「十字架の希望」~

不安に対する長い忍耐の生活はいろいろな意味で私たちの心を試します。そんな不安な心に力を与えるのが「希望」です。
人間の最大の不安は「死」とそれにいたるまでの「時間」ではないでしょうか。

十字架から降ろされたキリスト

私が信仰を持ったきっかけも実はこの「希望」が与えられたからでした。もう45年も前になります。当時私は母子家庭で、母と妹との三人暮らしでした。秋も深まった頃、母が交通事故で突然帰らぬ人となりました。
悲しみと失望で押しつぶされそうになったとき、教会に導かれ聖書を学びはじめ、「死」について「眠り」という表現がなされていたことに180度気持ちが動かされたのです。眠っているのなら、時が来れば目覚める!
その確信を示されたのがイエスの十字架の死からの復活でした。
イエス・キリストの生涯は私たちの模範ですから、彼の身に起こったことは私たちにも実現するのです。

十字架から下ろされたイエス様の亡骸は悲しみの内に墓に葬られました。弟子たちは深い悲しみと恐怖の中で失望、落胆していました。イエス・キリストが亡くなられて3日目の早朝、まだ暗い時間、光り輝く天使が墓の前に降りてきました。天使が近づくと地面が揺れ動き、墓を警備していたローマの兵士たちは恐怖に取りつかれ、そして死んだように地面に倒れました。
天使は大声で「神の御子よ、父があなたを呼んでおられます。出てきてください。」と叫びました。死はもはやイエス・キリストを支配することはできませんでした。イエス・キリストは勝利者として死からよみがえられたのです。

キリストの復活

朝早く墓に来たマリアは、封印してあった墓の扉が開き、その中のイエス様の亡骸がなくなっているのを発見し、その前で泣いていました。
そんなマリアにイエス様は現れ、「マリアよ」と優しく語りかけられました。マリアはイエス様がよみがえられたということを嬉しい知らせをもって、大喜びしながら弟子たちのもとへ急ぎました。
その後、イエス・キリストは弟子たちの前にも姿を現され、40日間以上に留まられ、神の国について、はっきりと彼らに教えられ、喜びをお与えになりました。

イエス・キリストの生涯6 ~十字架の救い「悔い改め」~

今年は新型コロナウイルスの大感染で、世界中が不安の中に閉じ込められています。不安は私たちの心を狭くし余裕をなくします。すると自分中心になってしまい、他の人のことを思いやることに疎くなってしまいます。こんな時だからこそ、お互いが思いやり協力してゆくことが大事です。

十字架

イエスの十字架の両側に二人の強盗も十字架にかけられていました。
一人は、隣のイエスを罵り続け、もう一人はそれをたしなめていました。

ののしる強盗は自分のことだけを思い、嘆き、悔やみ、怒り、その矛先をイエスに向けています。
たしなめる強盗は自分のことを客観的に見て、嘆き、苦しみ、悔やみ、悲しんでいます。
そして、救いに値しない自分なのだけれど、その存在をあなただけでもいいから覚えていていただけると幸いですと、悔い改めたい意思をイエスに伝えます。

実は、イエス・キリストはこの強盗の罪を悔ゆる心と思いやりに触れて慰められたのでした。
また、イエスは十字架の上から御自分を十字架にかけた人々のためにも祈られました。

そして、

と大声でさけび、十字架の上で息を引き取られました。それは壮絶な死でありましたが、同時に大いなる愛の実現ともなりました。この十字架の死こそが、まさに私たちが負わなければならなかった「罪の結果である死」の身代わりになるのです。(次号に続く)