「信仰」タグアーカイブ

ナインワンワン

9月11日と聞くと何を思い出しますか?

24年前、アメリカで同時多発テロ事件があった日としても覚えられている日です。

ニュ―スで何度も流れる映像を覚えている方も多いのではないでしょうか。

さて、アメリカで911、つまリナインワンワンとは、緊急通報用の電話番号です。

日本では警察は「110番」、消防や救急車は「119番」ですが、アメリカではどちらも 「911番」に電話します。つまり、助けを求める番号はただ一つ、ナインワンワンなのです。

私たちは、苦しみの時、助けを必要としている時、どこに助けを呼び求めていますでしょうか。聖書の神様は、助けを呼び求めて欲しいと言っています¨旧約聖書の言葉を3つ紹介いたします。

一つ目は詩篇50篇15節です。

二つ目はエレミヤ書33章3節です。

そして、三つ目は詩篇34篇6節です。

私たちは生きていると、様々な試練や困難を経験します。そのような時に、聖書の神様は、呼び求めて欲しいと願っているのです。

人間的に考えて絶望的な状況においても、神様は必要な助けを送ってくださると約束してくださっているのです。

今日、試練の中、苦難の中を通っている方もいると思います。聖書の神様は、お一人お一人を呼んでおられます。そして、この呼びかけに答えるか否かは私たち一人一人の選択に委ねられているのです。

24時間いつでも聞いてくださる、ナインワンワン。

聖書の神様を呼び求めてみませんか。

目からうろこ

いよいよ、暑い夏がやってきますが、皆さんお元気でお過ごしでしょうか。
さて、「目からうろこ」について考えてみたいと思います。
「目からうろこ」とは、急に何かのきっかけで物事の実態が分かり、理解できるようになることのたとえです。皆さんは目からうろこが落ちる体験をしたことはありますでしょうか。
「目からうろこ」という言葉は、新約聖書使徒言行録9章18節からきた言葉と考えられています。その箇所を読ませていただきます。

目からうろこのようなものが落ちた経験をしたのは、サウロという男性です。サウロは聖書をよく知っていましたが、イエス・キリストを救い主として信じていませんでした。それどころか、イエス・キリストを信じている人を迫害し、捕らえては牢獄へと送り込んでいました。そのため、当時の信者の間では、サウロは迫害者として有名で、恐れられていたのです。
そんなサウロが、ある日イエス・キリストと出会うことになります。その出会いの衝撃のあまり、サウロは3日間、目が見えなくなったのです。この3日間、サウロは何をしていたのでしょうか?

聖書を読むと、サウロは何も食べず、飲まず、ただただ祈っていたというのです。
自分が今まで信じていたものが間違っていたのだろうか?自分は神様のために活動していたと思っていたサウロは、実は神様の敵の働きをしていたことに気づかされます。
3日後、アナニヤという男性がサウロの所に遣わされます。そして、アナニヤがサウロの上に手を置いて祈った時に、サウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおりに見えるようになったのです。サウロは、救い主であるイエス・キリストについてはっきり理解できるようになりました。
そして、偉大な伝道者『パウロ』としての人生がスタートしていくのです。

聖書の神様は、私たち一人一人にサウロと同じ体験をしてほしいと望んでおられます。イエス・キリストは私たち一人一人と個人的に出会いたいと望んでおられるのです。
そして、イエスさまに出会った時に、私たちの目からうろこが落ち、サウロのような新しい人生が始まるのです。

心は幼子のように

ある幼稚園で園児が教師に質問しました。

園児「せんせい、どんな おうちに すみたい?」

教師「お城みたいな大きなお家に住みたいな!」

園児「わたしは だいすきな ひとが いる おうちに すみたいな」

教師(心の声)「もう一回。もう一回だけ、先生に答えるチャンス頂戴!!」

弟子たちはイエス・キリストのもとにいながら「信仰」とは何かを十分に理解していなかったようです。弟子たちの頭の中は、この中で誰が一番偉くなるかという事が優先し、信仰を養うのに大切な、愛、謙遜、柔和さなどが後回しにされていました。

そこで、子どもを通して彼らが勘違いしていることを修正し、方向転換しなければならないことをお示しになりました。

子どもは自分を優れたものとは思っていません。そして、自然に自分にふさわしい小さな事で満足します。単純で信じやすく、純粋で活動的です。そして常に愛し愛されることや受け入れられる喜びを求めています。

私の息子が小さかったとき、時々彼のおもちゃ箱を覗いてみることがありました。そこには決して高価なものが入っているわけではありません。つぶれたお鍋のふた、空気の抜けた風船、ティッシュペーパーの空き箱、お気に入りの黄色い小さな自動車、白いスプーン、そんなものが彼の宝物として他のおもちゃと共に入れてありました。それらで創造的に「遊ぶ」わけです。しかも大満足で・・・

また、子どもは無視される事に不安を感じ、受け入れられるためにわざと悪戯をして叱られることを選びます。本当は愛されることを求めているのですが、それがかなわいと思うと自分に気持ちを向けさせようと色々考えるわけです。それほどまでに求めるのです。

イエス・キリストはこの世の生涯において、子どもらしさを失わされることはありませんでした。飾ることなく神としての偉大さもあえてみせることなく子どものように無欲でありました。そして、この世の最も小さき者の僕のように生きてこられました。しかし、むしろ、そのようにして神の教会の主であられたのです。

今、自分自身を見つめ直してみましょう。幼子らしさが失われていないでしょうか?肩の力を抜いて、思い煩いは神様に委ねて、無邪気で、素直で、裏表のない今日を過ごしていきましょう。