「島田 隼人 牧師」カテゴリーアーカイブ

忘れないように

皆さんは「訓練」という言葉は好きでしょうか?
なんとなく、辛く、苦しいイメージがありますが、その先には成長した自分を想像できるかもしれません。
旧約聖書、申命記8章5節には、次のように書かれています。

聖書の神様は、時に私たちを「訓練」するというのです。その目的は、神様に頼ることを忘れないようにするためであり、私たちの幸せのためなのです。

聖書の神様が私たちに知らせたいこととは、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ということです。つまり、私たちに与えられている「主の言葉」である聖書の言葉に頼ることを知らせたいのです。

この通信を読んでくださっている皆さんも、今まで様々な訓練、試練を経験されたと思います。
まさに、今、その試練の中を生きている方もいると思います。
辛すぎて、苦しすぎて、この試練、訓練の先にある成長や幸せなど考えられないこともあると思います。
試練の中、苦難の中において覚えておきたいイエス・キリストの言葉を紹介いたします。
新約聖書ヨハネによる福音書16章33節です。

苦難はあるけど、それらすべての苦難に勝利された方、イエス・キリストの言葉に信頼し、皆さんお一人お一人に神様からの平安と勇気が与えられますようにお祈りいたします。

私ごとですが、この3月を持ちまして、小金井教会の牧師を離れることとなりました。
通信を通してですが、皆さんとお会いできたことを感謝いたします。ありがとうございました。
4月より新しい牧師が着任しますので、今後とも小金井教会をよろしくお願いいたします。

心強い味方

皆さんには、心強い味方はいますでしょうか。
数年前のバスの中。一歩も動けないほど混んでいました。私の前には、小柄なおばあちゃんが立っていました。
しばらくして、おばあちゃんはそわそわしながら近くの男性に伝えました。
「出口のドアの近くに行っておきたいので、通してくださいますか?」
すると男性は、おばあちゃんに優しく答えました。
「お気持ちはわかりますが、今は動けない状況なので・・・」
それを聞いた、おばあちやんは、がっかりした様子でその場に立ち続けました。


バスは進み、いよいよおばあちゃんが降りるバス停の近くに来ました。出口の方を見ながら不安そうにしているおばあちゃんに、男性は言いました。
「わたしもここで降ります。」
この言葉を聞いたおばあちゃんは安心した口調で言いました。
「あ〜、心強い味方ができた。」
おばあちゃんは、男性の後を歩きながらバスを降りていきました。

新約聖書ヨハネによる福音書12章46節と47節には次のように書かれています。


今日、希望もなく暗闇の中にいる人はいないでしょうか。平然を装いながらも、心は暗闇の中にいる方もいるかもしれません。

聖書のメッセージはとてもシンプルです。男性の後ろを歩いて出口に向かったおばあちゃんのように、イエスさまの言葉についていくならば、そこには希望があるのです。
自分の力では得ることのできない平安へと導いてくださるのです。

この世界は満員バス状態かもしれません。
不安の中に生きている人が沢山います。
この不安を、平安と喜びに変えるためにイエスさまはこの世界に飛び込んできてくださいました。このイエスさまを「知る」時に、私たちも、おばあちゃんが言ったように、「あ〜、心強い味方ができた」と安心することができるのです。

柔和な人

2026年がスタートしました。本年もよろしくお願いします。

さて、皆さんは、「柔和な人」でしょうか?
もしくは、家族や友人に「柔和な人」はいますでしょうか。「あなたは柔和ですね!」と言われて、嫌な気持ちになる人は少ないのではないでしょうか。わたしも、いつも柔和な人でいたいな〜、とは思っていますが・・・なかなか難しいですね。
忙しい時や、ストレスが溜まっている時、私たちは柔和でいることが難しくなります。

さて、新約聖書のマタイによる福音書5章5節にはこう書かれています。

とてもシンプルでストレートな言葉です。柔和な人々は幸いな人たちであり、地を受け継いで長く幸せに生きるのです。

もう一つ、新約聖書エフェソの信徒への手紙4章2節を紹介します。

聖書に出てくる 「柔和」という言葉には、優しい、素直、忍耐強い、おとなしい、従順などの意味が込められているようです。では、どうすれば 「柔和な人」になれるのでしょうか?
聖書にはその答えが書かれています。

「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。」
エフェソの信徒への手紙4章1節

神様から招かれて、主であるイエス・キリストと結ばれること。これこそが、「柔和の人」になる道なのです。そして、この招きは全ての人へ向けられています。

2026年、楽しいこともあれば、試練もあるかもしれません。また、今まさに試練の中で生きている方もいるでしょう。

どのような時でも 「柔和な心」を与えてくださる神様のお守りをお祈りいたします。

ゆるし

皆さんは今までに、誰かに赦された経験、もしくは誰かを赦した経験はありますでしょうか。または、今誰かを赦したいけど、なかなか心から赦せない状況にある方。反対に、赦されたいけど、自分ではどうしようもできない方もいるかもしれません。
ゆるしの経験は心に平安をもたらします。

新約聖書エフェソの信徒への手紙4章31節〜32節には、次のように書かれていました。

聖書の中心メッセージは、あなたは「愛されている」そして「赦されている」なのです。
しかし、時に私たちは、「そもそも自分は悪くないし、赦される必要はない」、「勝手に赦されても困る」などと思ってしまいます。皆さんはどうでしょうか?

放蕩息子の帰還 レンブラント・ファン・レイン

赦しによる平安を全ての人に与えるためにイエス・キリストは十字架で死なれました。
イエス・キリストの十字架の死によって、神様との和解が成立し、全ての人に赦しが与えられたのです。つまり、十字架に近づくとき、私たちは赦しが必要な存在ということを知り、そして赦しの喜びと平安を体験するのです。

聖書には、神様の敵であるサタンも登場します。サタンの働きは、人間を十字架から遠ざけることです。近づいてほしくないのです。なぜなら、十字架には赦しによる平安といヽスこの世では決して得ることのない喜びがあるからです。
私たちが神様からの赦しを経験した時に、私たちは他を赦せる存在へと変わるのです。
十字架による赦しを経験し、私たちも互いに赦し合う生き方を選んでいけたら良いですね。

今日、皆さんの心に赦しの平安を与えたいと願っておられるイエス・キリストに心を開き、十字架に近づく選択をしてみてはどうでしょうか。イエスさまは待っておられます。

皆さんの心に平安がありますように。

ナインワンワン

9月11日と聞くと何を思い出しますか?

24年前、アメリカで同時多発テロ事件があった日としても覚えられている日です。

ニュ―スで何度も流れる映像を覚えている方も多いのではないでしょうか。

さて、アメリカで911、つまリナインワンワンとは、緊急通報用の電話番号です。

日本では警察は「110番」、消防や救急車は「119番」ですが、アメリカではどちらも 「911番」に電話します。つまり、助けを求める番号はただ一つ、ナインワンワンなのです。

私たちは、苦しみの時、助けを必要としている時、どこに助けを呼び求めていますでしょうか。聖書の神様は、助けを呼び求めて欲しいと言っています¨旧約聖書の言葉を3つ紹介いたします。

一つ目は詩篇50篇15節です。

二つ目はエレミヤ書33章3節です。

そして、三つ目は詩篇34篇6節です。

私たちは生きていると、様々な試練や困難を経験します。そのような時に、聖書の神様は、呼び求めて欲しいと願っているのです。

人間的に考えて絶望的な状況においても、神様は必要な助けを送ってくださると約束してくださっているのです。

今日、試練の中、苦難の中を通っている方もいると思います。聖書の神様は、お一人お一人を呼んでおられます。そして、この呼びかけに答えるか否かは私たち一人一人の選択に委ねられているのです。

24時間いつでも聞いてくださる、ナインワンワン。

聖書の神様を呼び求めてみませんか。

見捨てない

皆さんは、「見捨てる」という言葉を聞くと、どのような思いになりますか。
「見捨てた」、もしくは、「見捨てられた」。
どこか関係が切れてしまい、孤独を感じます。そして、心が寂しくなるような言葉ではないでしょうか。
聖書の神様は、私たちがどのような状況にあっても、決して見捨てない神様です。
旧約聖書詩編9編11節には、次のようなことが書いてあります。

新約聖書ルカによる福音書15章に、100匹の羊と羊飼いのたとえ話があります。
ある時、1匹の羊が迷子になってしまいます。100匹いるうちの1匹です。残り99匹います。
皆さんが羊飼いでしたら、どうしますか?
まだ、99匹いるから1匹くらい、いいやと思いますか?それとも、迷子になった1匹を見捨てずに探しに行きますか?
このたとえ話では、羊飼いは99匹を野原に残して、失った1匹を探しに行きます。
決して見捨てないのです。たとえ話の羊飼いとは、イエス・キリストをあらわしています。そして、迷子になっている1匹の羊は私たちなのです。


たとえ話の最後は、羊飼いが無事に迷子になった1匹を見つけ出し、喜びで終わります。イエスさまは、迷子になってしまい、不安の中に生きている一人一人を探しておられるのです。そして、決してあきらめず、見捨てることはないのです。

今日、試練の中、不安の中、または孤独を感じながら生活している方もいるかもしれません。
聖書の神様は、あなたを探し続けているのです。
羊飼いであるイエスさまに出会った時、この世が与えることのできない平安が私たちの心を満たすのです。ぜひ、見捨てない神様に心を向けてみませんか。

それでは、皆さんの心に平安がありますように。

目からうろこ

いよいよ、暑い夏がやってきますが、皆さんお元気でお過ごしでしょうか。
さて、「目からうろこ」について考えてみたいと思います。
「目からうろこ」とは、急に何かのきっかけで物事の実態が分かり、理解できるようになることのたとえです。皆さんは目からうろこが落ちる体験をしたことはありますでしょうか。
「目からうろこ」という言葉は、新約聖書使徒言行録9章18節からきた言葉と考えられています。その箇所を読ませていただきます。

目からうろこのようなものが落ちた経験をしたのは、サウロという男性です。サウロは聖書をよく知っていましたが、イエス・キリストを救い主として信じていませんでした。それどころか、イエス・キリストを信じている人を迫害し、捕らえては牢獄へと送り込んでいました。そのため、当時の信者の間では、サウロは迫害者として有名で、恐れられていたのです。
そんなサウロが、ある日イエス・キリストと出会うことになります。その出会いの衝撃のあまり、サウロは3日間、目が見えなくなったのです。この3日間、サウロは何をしていたのでしょうか?

聖書を読むと、サウロは何も食べず、飲まず、ただただ祈っていたというのです。
自分が今まで信じていたものが間違っていたのだろうか?自分は神様のために活動していたと思っていたサウロは、実は神様の敵の働きをしていたことに気づかされます。
3日後、アナニヤという男性がサウロの所に遣わされます。そして、アナニヤがサウロの上に手を置いて祈った時に、サウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおりに見えるようになったのです。サウロは、救い主であるイエス・キリストについてはっきり理解できるようになりました。
そして、偉大な伝道者『パウロ』としての人生がスタートしていくのです。

聖書の神様は、私たち一人一人にサウロと同じ体験をしてほしいと望んでおられます。イエス・キリストは私たち一人一人と個人的に出会いたいと望んでおられるのです。
そして、イエスさまに出会った時に、私たちの目からうろこが落ち、サウロのような新しい人生が始まるのです。

ため息

皆さんは「ため息」をつくことはありますか? 私はしょっちゅうあります。
「ため息」は心配事がある時、がっかりした時、疲れた時、または感動した時などに思わず出る息のことだそうです。特に疲れた時に出やすいですよね。

調べてみますと、ストレスや緊張を感じると、人間の呼吸が浅くなり、酸素不足になってしまうようです。そこで、体は「ため息」を促し、自律神経のバランスを整えようとしているのです。
ため息の効果としては、身体の緊張を緩め、呼吸を整えることで、心を落ち着かせ、リフレッシュ効果が期待できるというのです。
私たちは生きていると、心配事などで心が騒いでしまい、ストレスを感じてしまうことも多々あると思います。そのような時に、呼吸を整え、心を落ち着かせる時間は必要です。

新約聖書ヨハネによる福音書14章1節には次のようなことが書かれています。

また、14章27節では次のように書かれています。

これは、イエス。キリストが、心を騒がしている弟子たちに向かって言った言葉です。最後の言葉はとても力強いですよね。
「心を騒がせるな。おびえるな。」
この言葉は、今生きている私たちへの言葉でもあります。心が騒いでいる私たちに向けて、イエス・キリストは平和な心を与えたいと願っておられるのです。

みなさんは、どのようにして心を落ち着かせていますでしょうか。
ゆっくりと息を吐いて、イエス・キリストから与えられる平和な心を求める時間をもってみませんか。ため息をする度に、聖書の言葉を思い出してください。

「心を騒がせるな。おびえるな。」